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惰性で生きるor気分で死ぬ? 長寿→永遠の生命になる世界の歩き方を考える〜Talk log Vol.5

“不老不死”と聞くと、どうしても物語の悪役を連想してしまいます。不老不死の秘術を求めて人の道から逸れる悪役の姿は、想像に難くないでしょう。そのせいか、不老不死が手に入ることに対して手放しで喜べる人は少ないかもしれません。むしろ「人生は終わりがあるから素晴らしい」という、物語の幕を閉じるのにお決まりの台詞が思い浮かぶ人がほとんどなのではないでしょうか。“不老不死”に対する疑問、永遠の生命に関するネガティヴな感情を現代人が未だ手放せない一方で、それを実現可能にするテクノロジーは確実に進歩し続けています。

2018年現在、再生医療、バイオテクノロジーの進歩により、現代のティーンネイジャーのほとんどは100歳以上まで生き永らえると言われています。このまま寿命が伸び続けた先に“永遠の生命”が待っているとして、僕らにその準備はできているでしょうか。

“命の長さ”を巡る問いは、サイエンスフィクションの世界から、僕らの暮らす実世界にまで迫り、すでに喉元寸前まで突きつけられているのです。2017年10月25日のリモート読書会トーク、『いま世界の哲学者が考えていること』(著:岡本裕一朗,ダイヤモンド社,2016)の第3章《バイオテクノロジーは「人間」をどこに導くのか》をテーマに意見が飛び交いました。

福井:いつかの新聞で、人間の身体の一部分を動物に移植する実験に関する記事を読んだことがあって、どうしてもその逆を考えずにはいられなかった。例えば動物を遺伝子操作して“人間に近い心臓”をつくり、それを人間に移植するのはどうなんだろうと。もっと踏み込むと、それは動物ではなくクローン人間でもいいはず。“人間に近い心臓”ではなく“人間の心臓”そのものをつくってしまえばいいから。人格の発生しない移植用のクローン人間を用意して、歳をとったら弱った身体の一部を“入れ替える”。そんなふうになれば半永久的に生きられるし、僕らは犠牲になるクローンと人間とが対等ではないという違いを明確にしなきゃいけない。

伊地知:そうやって身体の“入れ替え”で寿命を克服できたら、“不老不死”が実現できますね。今回のトークのテーマ本としている『いま世界の哲学者が考えていること』(著:岡本裕一朗,ダイヤモンド社,2016)には「不老不死では幸せになれないのではないか」といったことが書いてありました。これ、僕はあまりしっくりこなくて、例えばいま「あなたは不老不死です」と言われたら、それはそれでラッキーだなと思っちゃいそうなんですよね。僕はまだ26歳なので、60歳、70歳と歳を重ねたらまた違うのかもしれないんですけど。

西嶋:現代で延命といえば、70,80歳で病気に苦しみながら床に伏せているイメージだからなんか嫌だなと思うけど、医療技術の発達によって健康なまま延命できるようになれば、それを望む人は増えてくるのかなと思ったりしますね。例えば70歳でも身体年齢は現代人の50歳くらいを保っているような。でも、終わりがない人生って、それはそれできついかもしれないですね。いつか生きる目的がなくなってしまう気がします。生かされ続けていると思った人は、そのときの気分で自殺や安楽死を安易に選んでしまうかもしれない。

龍興:自殺だけでなくて、殺人も増えそうです。寿命が永遠になるということは、“殺される”リスク、残念度みたいなものが高まるということ。「殺されなかったらずっと生きていたのに、いま殺されてしまった」という、殺人が与える“無念さ”が高まれば、殺人の意義が今以上に強まる気がしますね。

鈴木:「無駄に生きるな、熱く死ね」みたいな言葉がありますけど、その言葉に反するように、惰性で生き続ける人がいっぱい出てきそうだなと思います。生き続けるのか死ぬのか、二者択一で選べるときに“とりあえず生きておこうか”となりそうです。

伊地知:そうなると世の中がとてもつまらなくなりそうですね。無気力にただ生きているだけの人、いわば身体だけは若いご老体が世に溢れるみたいな。

福井:たぶんそこまで技術が進むと、今の“人間という概念”が変わるんじゃないかなと。人間が100年を超えて永く生きるということを一つの壮大な実験だと考えると、生きることへの退屈さやつまらなさも、その過渡期に生じるある種の症状みたいなものに過ぎなくて、そういうものを乗り越えた先に、新しい“人間という概念”があるんじゃないかなと。もはや“超人”と言われるような、自分たちの想像にはおよばないような現代人とは全く異なる人間が生まれたりするのかなと。

伊地知:たしかに、寿命が延びるのに伴って、思考や生き方も変化し、全く新しい新人類的な価値観も出てきそうですね。

福井:今まで“歳をとる”ということがどういう価値だったのかを考えてみたらいいのかもしれない。僕はちょうど今年で30歳を迎えようとしているけれども、人生に有限性、つまり終わりがあるからこそ、今やるべきことも見えてくる気がしていて。そういう有限性の意識を日常的に持つためにも、昔から年齢ごとにフェーズを区切って物事を考えてきたんじゃないかなと。論語で語られていることもそうだし、身近なところだと、20歳を節目に成人式をやることもそう。そういう年齢に伴うイベントが社会になかに埋め込まれていて、きっとそれは、徐々に老化していくのを前提に、フェーズごとに“どう生きるのか”を問い直すための仕組みなんじゃないかなと。

鈴木:一般的な、いわゆる“まともな”な考え方だと、若いうちはこれくらい働いて稼いで、30歳くらいで結婚して、あと家を建てて、みたいな、人生計画があると思うんですけど、逆にわたしとかはあんまり計画的に生きることはしないんですよね。単純に今やりたいことを思いつきのままにやっていっているような生き方をしているなという自覚があって。そう考えたときに、わたしの場合は人生が200年だろうが200年だろうが延びたとしても、いつであっても“そのときにやりたいことをやり続けているだけ”なんです。無限に人生が続くならば、やりたいことを永遠にやり続けられるので嬉しいですね。

西嶋:それはたしかにそれで幸せですね(笑)

伊地知:それを聞いて思ったんですが、永遠の生命になると子どもが減りそうですね。みんなまだ生きているから、別にあとを残さなくてもいいじゃん、という気になるし、それこそ結婚もいつでもできるから慌てなくいいって思える。

鈴木:それなら、わたしは何回も結婚して何回も子どもを産みたい。例えば最愛の人となんらかの理由で生き別れたり、別の道を選んだりしたとしても、その先に無限に人生があるわけなので、その時々に最も愛した人と何度でも結婚して子どもをつくればいいじゃんって思います。

伊地知:それこそさっき出てきた新しい新人類的な価値観ですね。もしかしたら鈴木さんはすでに“超人”なのかもしれない(笑)


寿命の長さ、いわゆる”死”との距離感が変われば”生”への価値観も変わる...。不老不死を語らうなかで明らかになったのは、生きる期間の変化が僕らの思考様式そのものを改変してしまうかもしれないという可能性でした。

一方で、もっと個々に焦点をあてると、それぞれが異なる”思考”をしています。思考は脳が司るとするならば、個々で異なる脳の特性がある。その思考すら定量的に計測できるテクノロジーが世に放たれたとき、僕らに”正しい”脳の特性を決めることはできるのでしょうか。次回第2編では、そんな”正しい”に向き合います。

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Photo by Luca Ambrosi on Unsplash

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