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”変わらない良さ”は構造的に存在し得ないという、耳を塞ぎたい真実

またまたタイトルですべてを言い切りました。人によっては、不快な想いをされるかもしれませんので、タイトルを読んで察してください。

とはいえ、最初に誤解なきようお断りしておくと、僕は伝統文化をめちゃめちゃ大事なことと思っているし、文化や歴史も好きな方です。博物館や史料館をそこそこ楽しめますし、美術館に行くときは、どちらからというと画家の生きた時代や美術史を知りながら絵を眺めて楽しむタイプです。

そんな僕ですが「世の中に変わらない良さなんてない!」と言い切ってしまいます。
「変わらないことにも価値はある!」と声高に叫びたい気持ちもよーくわかります。理解できます。ですが、ちょっとピントがズレているなぁと思わずにいられません。
そろそろご立腹して読まれている方もいそうですので、説明させてください。

たぶん「変わらない良さ」と呼ばれるものは、例えば故郷の山に流れるきれいな河川だとか、駅前の商店街の八百屋さんの大将の笑顔だとか、伝統工芸品の作家さんに代々引き継がれる技術だとか、そういうものを指しているのだと思うのですけれども、

そもそも、”良さ”や”価値”というものは、世の中にたくさん色んな種類がある評価軸、つまり「これがいいよね!」って測るためのモノサシを使って測定される指標のことです。だから、”良さ”や”価値”を決めるのは「どんなモノサシで測るか」次第なんですね。

剣を上手に使って目の前の敵を斬り殺す才能は、戦に明け暮れる戦国時代には”価値がある”才能ですが、現代社会においては殺人鬼になるくらいしか道がない。つまり”価値がない”才能です。才能1つとっても、その才能が社会が要請するアウトプットとマッチしていなければ全然評価されない。戦国時代のモノサシで測るか、現代社会のモノサシで測るか、それ次第なのです。

故郷の山に流れる河川は、たしかに山の自然におけるイチ風景としては変わってはいなかったとしても、あなたが子どもの頃に川遊びをしながら感じた川の価値と、大人になってから久々に帰省して川を横切ったときに感じる川の価値は、明らかに違うはずです。子どもの頃のモノサシと、今のあなたのモノサシが全く違うから。

川そのものは”変わらない”としても、その”良さ”や”価値”を測るモノサシは、時の経過とともに確実に”変わっていく”ものです。個人としても、時代としても、社会としても。

そういう意味で「変わらない良さ」なんて、無いのです。

極端な話、毎秒毎秒、その一瞬一瞬で、ちょっとずつ、あなたのモノサシは進化している、変わっているのですから、同じ川を見ていたとしても、もう1秒後には、1秒前とは違う”良さ”や”価値”を感じているはずなのです。

「変わらない良さ」があると言ってしまうのは、世の中に普遍的で全員がそれに従っているような絶対的なモノサシがあることが大前提になっています。

現実問題、そんなことはありません。僕とあなたのモノサシは違うし、10年前と今のあなたのモノサシは違う。価値を測定するモノサシが常に変化し続けるものである以上、あらゆる価値も常に変化し続けるものなのです。

ものごとの価値、ものごとの良さ、というものは、そういうとっても相対的なものであって、観察者がどんなモノサシを有しているかによって、いかようにでも変化しうるものなのです。
だから「世の中に変わらない良さなんてない!」と僕は言い切ってしまいます。

「あらゆる価値が相対的に測られたものであり、絶対的な価値なんてないんだ」という気づきを得ることは、実はめちゃくちゃ精神衛生上も効果的で、人生を軽やかに生きるためにかなり大事な教養だと思うのですが、その話については詳しくは次回に譲ります。

あなたはどんなモノサシで価値を測っていますか?

ここまで読んでいただいて本当にありがとうございます! 少しでも楽しんでいただけましたら、ぜひスキをお願いします!