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対話的態度を生み出す「部分の中に全体がある」という世界観について。

気づけば前回の記事から6日も経ってしまっていて、その間頭の中でいろいろまた対話について巡らしていたけども、やっぱり文字にしていかないと形になっていかない。

まずは自分の中に何があるのかを掘り起こしてみることから始めてみる。

「対話」に出会ったのはいつが最初だったか。この辺りはいくつかにまたがっていて、これが最初というのがはっきり分からなくなっている。

一つは、2008年の冬ごろに、当時の上司から勧めてもらった「シンクロニシティ」という本の中で出会っている。

リーダーシップを巡る著者の自伝的な内容で、彼が立ち上げるアメリカン・リーダーシップ・フォーラムのプログラムを形作っていく過程で、ある新聞に載っていた記事に物理学者デイビッド・ボームが対話について書いていて、それを読んだ著者がボームに会い、そこでボームが語る内容が僕と対話(ダイアローグ)との出会いの一つ。

もう一度ここを読んで振り返っておくことは大事かもしれない。

実際にこのあと、このデイビッド・ボームが書いた『ダイアローグ〜対立から共生へ〜』という本を購入して読んで、ここでも大きな感銘を受けた。当時は後半の内容が難しく理解が中途半端になってしまったけど、今読むことで理解が進むこともあるかもしれない。

ここで「部分と全体」という話が出てきて、これは当時本当に衝撃的だった。「全体は部分の中に包含されている」という内容だった。普通の考えでは「全体の中にたくさんの部分があり、部分か集まって全体が成り立っている」という話だと思うが、これは機械的な世界の見方だということだ。

「部分の中に全体がある」という話は、確かに大乗仏教でも世界に対してそういう見方をしているし、生物学もそういう見方をしている。論理や線形的な思考では矛盾するようなことが、実際は真実だったりする。

例えば、対話というものを考えたときに、あるプロジェクトを進める中で、1時間の対話を実施した。終わった時にまるで何も進んでいない、決まったこともなく、気づきもない、1時間は無駄だったと思うような対話があったとしても、この1時間の対話の中に「今プロジェクトで起こっていることの全てが含まれている」という視点に立つことで、表面的な決定を焦ってするよりも本質的な気づきへアクセスすることができる。

また、「部分の合計が全体」という機械的な視点で打ち合わせというものを見ると、決めるべきことを積み上げていく形で、決定事項の合計がプロジェクトの結果ということになる。なので、とにかく決めるべきことを決めることを優先し、決まりごとのない打ち合わせは無駄だったということになる。

しかし、「部分の中に全体がある」という対話的な視点では、「自分たちがなぜここにいるのか?」という「今起きていることの意味や理由」を問うことで、集まっているメンバーの中にある動機や想い、願い、なぜそれをするのか?などの文脈を明らかにすることを優先する。自分たちがここにいる意味が分かれば、決まるべきことは自然に決まっていく(決まっていた)、という世界観によってことを成していく。

この『シンクロニシティ』や『ダイアローグ』を読んでたときにもう一つ読んでいた本が『出現する未来』という本で、ここにもデイビッド・ボームが登場し、ダイアローグについての解説がある。

この本でも「部分と全体」の話があり、こんなエピソードが載っていた。僕らは夜に、空を見上げると一面の星空を眺めることができる。それは広大な無限の宇宙の景色だ。しかし、それを眺めて見ることが出来ているということは、この1立方センチメートルほどの眼球の中にこの無限の宇宙という光が全て飛び込んできているという事実がある。小さきものの中に大きなものが全て包み込まれているという事実は、僕らに何を教えてくれるだろうか?

「部分と全体」という話は、僕が対話というものに、この世界の未知なる領域に、人という存在に探究心を抱くのに大きな影響を与えてくれた。

この出会いから2010年ごろまで僕は「ダイアローグ」という取り組みに没頭する。

他にも、ワールドカフェやOSTなどのホールシステムアプローチや「U理論」なども含めた活動がこの頃のメインだった。

そこからもっと純粋な「聞く」ことへ関心が移っていくのだけど、そのことは次の記事で書こうと思います。

『自分をいかして生きる』という本との出会いによって、それは始まります。

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