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#163 読書録 暇と退屈の倫理学を読んでvol.2(第3,4章)

こんにちは!けーたです。

今日は約1か月ぶりに、暇と退屈の倫理学を通勤時間に読みましたので読書メモを投稿いたします。

これで、國分功一朗著の作品を読むのは3冊目ですが、もともと自分が人生で哲学関係の書を読むとは思っていなかったので、未だになんだか生まれ変わった気がして、高揚感を覚えます笑

同じ著者の作品で「中動態の世界」は内容を1㎜も理解できなかったですが、電車の中で読んでいると高揚感?どや感を味わう事が出来ます笑

そこに山があると上りたくなるような読書家さんで、まだ読まれていない方にはおススメです

という事で、本日は「暇と退屈の倫理学」第3、4章について頭に叩き込んでおきたい事などを中心にまとめておきます。


第3、4章を読んでの全体感

第3章は暇と退屈の経済史ーなぜ「ひまじん」が尊敬されてきたか?
第4章は暇と退屈の阻害論ー贅沢とは何か?
という章立てです。

第3章は、経済成長(特に労働生産性が飛躍的に高まったフォーディズム)を期に、人間が暇を獲得していき、どう付き合ってきているのか?をかなり丁寧に説明してくれており、わかりやすい。

特に、余暇が管理された余暇となり、仮に管理されない余暇を手に入れた時に私たちは何をするのだろうか?という問いは自分にとっても引き寄せやすく、自分がどうありたいのか?考える事になる良い問いをいただけた。

そして、レジャー産業は人々の要望に応えるのではなく、人々の欲望をそのものをつくり出す。と書かれており、これもその通りで、自分で自分の時間を楽しむ力はどう育めば良いのか?という問いが立ちました。

本を読む行為も結局、誰かの掌の上で踊らされているだけでは?とメタ認知していくとどこまでも階層が上がってしまい結果迷子になりました笑

どんなひとにおススメ?

正直、自分は理解しきれていないが、わかる所が少しでもあると自分の理解の領域が広がっている?といった感じる嬉しさがあり、それだけで楽しめています。そんなメンタリティーの方にはおススメです。

それとは別で、暇と退屈の倫理学。カッコいい!自分もヒマリン読んだ!っていってみたいという方にもおススメ笑

頭に刻みこみたいフレーズ

暇と退屈はどう違うか?

哲学書らしく、この本において、言葉をどのような意味で使っているか前提をはっきりさせている事が良いです。

そもそも、暇と退屈ってどう違うんだっけ?という問いにきちんと答えようとするとできない。

この本では、この章の入り口で明確にしてくれているので、備忘の為に残しておきます。

暇とは何もすることのない、する必要のない時間を指している。暇は客観的な条件に関わっている。

それに対し退屈とは何かをしたいのに、できないという感情や気分を指している。つまり主観的な状況の事である。

余暇はもはや活動を停止する時間ではない

では何なのか?ここでは非生産的活動を消費する時間。逆説的で休みだから何かをしなければならない時間というのも面白いので頭に刻んでおきます

まとめ

暇と退屈の倫理学の第1~3章ぐらいまでは、読んでまったく理解できないということはなかった。

いや、むしろわかりやすい構造で理解しやすいとまで感じていました。

ただし、今回の第4章はちょっと自分の理解力では別物と感じました。「本来性」という考え方を中心に、ルソー、マルクス、ハンナアーレント、、、の大哲学者が主張している事を重ねあわされると正直理解ができません。

お手上げです。という状態になりました。

もともと、本来のこの章の問いである「疎外」について、自分は一度この4章を読み終わった段階で意味を理解しきれなかった。

ただ、そんなもの。理解一発でできるわけないよ!という感じで気持ちよく次に進めるのも國分功一朗さんの哲学の本。

という事で割り切って次回は第5章以降に進んで行きたいと思います。

だれか、第4章は要はこういう事を言わんとしていると思うよ。と補助線を引いてくれるとありがたいです。コメントお待ちしております。

誰かの選書の参考になれば幸いです。

ではでは

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