見出し画像

心の中の火を見つめる

思い返してみれば、僕はずっと生きづらさを抱えてきた。
それが何に起因するのかは、はっきりしない。

中学校時代から人間関係には悩んできた。
仲の良かった友達から、言うことなすことをバカにされたり、けなされたりした経験は、僕の心の奥底に深い傷を残したようだ。
おかげで、かどうか分からないけれど、人から何かを指摘されると、まるで人格を否定されているかのように感じる強迫観念があった。
あった、というか、今でもないわけではない。

あるいは、複数人で会話をすることは苦手だ。
一対一のコミュニケーションなら何も問題ないのに、3人以上になると途端に話ができなくなる傾向がある。
複数の人の意識が一度に自分に向くことが怖いからだ。

親しい間柄の人たちであってもそんな始末だから、ましてあまり知らない人や初対面の人、特にすでに人間関係ができているグループの中に一人で入り込もうものなら、口を開くタイミングを完全に失ってしまう。
思い切って何かを口にすると、およそ自分の口から出たとは思えないような言葉が出てきてしまったり、まるで他人の声のようなしっくりしない声色が出てしまったりする。
そんな自分に落ち込んで憂鬱になって帰ってくることは、全然珍しくない。

今でこそほぼなくなったものの、以前は人前で話をしたり、発表したりする機会には、話すことの全文をあらかじめ用意しなければ臨めなかった。
アドリブが苦手で、人前で突然指名されて話をしなければならなくなった時に、後から激しい後悔と自己嫌悪に陥るような発言をしてしまったことは、今でも暗い気持ちと共に鮮明に思い出すことができる。

アドリブのうちでも、何か面白いことを言うことを期待されている場面などは、もう針のむしろというか、臓器がすべて腐ってしまったかのように、腹の底から嫌悪感が湧き起こってくるのが分かる。

そんな風に長年コミュニケーションに悩んできた僕は、感情の上下も大きかったと思う。
激しく情熱的にエネルギーが湧いてくることもあれば、自己嫌悪に陥る時にはどうあがいても立ち直れないくらいに激しく落ち込んだ。



そんな時に僕を救ってきてくれたのが、かまどだった。
かまどの火を見つめているだけで、昨日あれほど苦しんだ嫌な気持ちが薄れていくのが分かった。
かまどとともに仕事をしているうちに、不思議と何事もなかったかのような中庸な心持ちに変わっていく自分に気がついていた。

火を見つめていると、外部の雑音が入って来なくなるのだ。
自然と自分の内側に目が向くようになる。
そして、正でも負でもない、中庸で何もないところに気持ちが落ち着いてくる。
それでいると、とても楽だということに気がついた。

僕はかまど炊きの豆腐屋をやることで救われてきたのだ。  



その豆腐づくりの仕事を減らしてしまった今、毎日かまどの火を見つめることはなくなった。
けれど、僕の気持ちはだいたい中庸なところで落ち着いている。 
もちろん、怒りや悲しみや、不安などで上下することはあるけれど、そんなに振れ幅は大きくない。
すごいやる気でハイテンションになることもない。
波が少ないと言ってもいいかもしれない。

なぜか、ということにこの間ふと気がついた。
どうやら僕は心の中で、かまどの火を見つめているのだ。
それをすることで自分が落ち着くことを体得してきたからだ。
本物のかまどの火を見つめなくても、心の中で自然とやっていたのだと気がついた。

僕の場合はかまどの火だけれど、それと同じようなものが、きっと人それぞれあるのだと思う。
その何かをいつも心の中に持っていることで救われることがあるかもしれない。
火を見つめることが、その何かに気がつくきっかけになるかもしれない。

そんなワークショップや講座みたいなのができたらいいな、と考えたりしている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?