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死を傍らに置いて天寿を全うする

新しい年が明けました。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

昨年は、同じ年に、赤ん坊が生まれ、父親が亡くなり、否が応でも命についてより深く考える機会になりました。

父が亡くなってからというもの、僕は死をより身近に意識するようになりました。
誰にでも、いつでも、死は訪れる可能性がある。
当たり前のことですが、ついつい忘れがちになってしまいます。

しかし、「いつ死ぬか分からない」ということを意識するのとしないのでは、生き方にずいぶん違いが生まれるような気がします。



今年、僕は44歳になります。
この歳になり、ようやく自分の天命というものに意識的になってきました。
今まではそんなことを考えて生きてはこなかった。

きっと誰にでも、魂がこの世に降りて来た意味があるのではないかと思うようになりました。
あらゆる人との出会いや、幸も不幸も様々な出来事は、みなこの天命に近づくための道なのではないかと思います。
これは私たちには選びようがなく、大いなる流れの中で与えられていることなのだと思います。
その意味では、私たちの人生には、必要なことしか起こらないのだと言えます。

しかしながら、例えばこれらは生まれたときにすでにすべてのシナリオがあらかじめ決められているというような話ではなくて、一つ一つの自分の自律的な選択の結果として与えられるものだと思えます。
ですから、他力の働きと自力の働きが常にバランスして存在するのだと思います。



天命と同様に、天寿というものもあるような気がします。
これも、あらかじめ定められている寿命があるのではなく、自分の選択の結果として与えられるものなのではないかと思います。
天命を果たす時が天寿なのかもしれない、とも思います。



あとどのくらい生かしてもらえるのか分かりませんが、これからの人生は、天命を果たすことに全力を注ぎたいと思います。
僕が今天命と考えていることは、自分の周りを、誰もが生きているだけで素晴らしいと思える世界にすること。
これは、自分自身のためでもあれば、世界のためでもあると思います。

これは、遠くの大きな目標を達成するというようなことではないです。
大きなビジョンはあるけれど、目標とは違っていて、そのビジョンに向かって毎日毎瞬を楽しみ味わって生きたいということです。

死なないために生きているわけではないのだから、いつ死んでもいいと思えるように、いつも死を傍らに置いて天寿を全うしたい。
44歳のゾロ目歳を迎えるのにあたって、お風呂に浸かりながら、そんな覚悟のような気持ちが降りてきた大晦日の夜でした。

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