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善性に基づいた生き方

今年に入って、お金に頼らない生き方を考えてきています。
お金に頼らないのであれば、何に頼るのかと言ったら、人間関係ではないかな、と思っていました。
それを僕は「信頼関係」と考えてきました。

でも、ここのところ、信頼関係よりも、人の善性の方が大事かな、と思えてきました。
これを愛と呼ぶ人もいると思いますが、僕はどうも愛という言葉は今はしっくりこないので、ひとまず「善性」としておきたいと思います。



資本主義社会では、あらゆる権利をお金にしています。
お金というのは、考えてみれば、つまり何かと交換できる権利だと言えると思います。
それがほとんどすべてのものと交換できるということが、お金の価値を担保しています。

そして、お金は貯められるという機能があるので、将来へ不安を抱かないように、交換できる権利を貯蓄しておくわけです。 



だとすれば、お金でなくても、何かと交換できる権利さえあれば、私たちは不安ではない、と言えるのではないでしょうか。

それが、僕は信頼関係だと思っていました。
信頼し合える人間関係さえあれば、自分が何かすればそれと交換に何かをしてもらえる。
そうやって人と助け合えば、お金に頼らずとも生きていくことができる。

これはこれで、一つ考え得ることだと思います。

しかし、人に対して何もできなくなったら、、、と考えると不安になってしまいます。
病気やケガなどで、何もすることができなくなるかもしれません。
そうしたら交換に受け取れるものがなくなってしまうでしょうか?



僕は、物々交換を長くやってきています。
豆腐や油揚げ、おからなどと、野菜や卵なんかを交換しています。
物々交換にとどまらず、物事交換もしていて、例えば大工仕事や、鍼治療なんかをしてもらっています。

物々交換の場合、同じタイミングで物と物を交換することがありますが、物事交換の場合は、同じタイミングでは物と事を交換しない場合の方が多くなります。
特に、豆腐なんかは日持ちしないので、毎週あげるけれど、大工仕事は一年に一回くらいしかやってもらわなかったりするわけです。

そうなると、「等価交換」ということが曖昧になってきます。
何と何が等価なのか、ということはよく分かりません。
物々交換でも同じなのですが、物事交換だとより分からなくなってきます。

最初のうちは、お金に換算して「いくら分といくら分を交換した」とかメモしたりしていたこともありますが、そんな面倒なことは続きません。
そのうちに、どっちがより多くあげているか、なんてことはどうでもよくなってきます。

こういう曖昧な交換は、信頼関係があってこそのことではないかな、と思います。
誰とでもこれができるかと言ったら、僕はあまり自信がありません。
ありませんが、ただ、僕はここに希望の芽を見出しています。
というのは、自分の方が多くあげているのか、もらっているのか、なんてことはどうでもいい、と思える善性が僕らの中にはあるという希望です。



他者と信頼関係を構築するのには時間がかかります。
そして、どんなに長く生きたとしても、それほどたくさんの人と深い信頼関係を築くことは難しいような気がします。

もし、信頼関係に頼って生きていこうとしたら、すごく狭い人間関係の中でしか生きられないことになってしまわないかと思います。

だとしたら、僕は信頼関係よりも、人の善性に基づいて生きていきたいと思うようになってきました。
信頼関係を構築する前に、悪い人はいない、と自分の人生に関わりが生じた人は信じてしまうことです。
それならもっと世界が広がります。
会ったことがない人でも関わりさえあればいいので、構わなくなります。



人の善性に基づいて生きるとしたら、交換が前提ではなくなると思います。
見返りになにか受け取らなくても、差し出してしまうことです。与えることだけになります。

もしも、そういう世界を構築していけたとしたら、人は人に与えるのが普通になるので、自分も誰かから与えられます。
もし何もできなくなって寝たきりになっても心配はありません。

しかし、厳密に言えば、何も与えられない、ということはないのだと思います。
人はただ生きているだけで、誰かに何かしら与えている。

僕は、他者や社会に貢献できなくても、ただその人が生きていさえすればそれで素晴らしいと思える世界を、自分の周りに作っていきたい。

そういう世界は、交換だけではなくて、ギフトの世界だと思います。
そして、それに必要なのは、信頼関係よりも善性だと思います。

それであれば、僕たちは、すでに生まれながらにして、誰とでもそういう世界を構築できる可能性があるのではないかと思います。
なぜなら、僕らは善なる生き物だと思うからです。

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