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使徒言行録6章8節ー15節

「恵みと力に満ちて」
教会で起こった問題解決のために新しく7人の奉仕者が選ばれました。聖書はその中のひとりステファノの活動に光をあてます。彼は恵みと力に満ちていたと紹介されています。同時に彼は信仰と聖霊に満ちてもいましたし、知恵と霊にも満ちています。即ち、信仰も力も知恵も自分で得たものではないのです。すべて聖霊によって与えられたものだと説明されているのです。この聖霊こそがしるしと不思議を伴う目覚ましい伝道を可能にするのです。

伝道の働きとは決して自分の能力やがんばりに頼ってできるようなものではありません。たとえ、どんなに力が弱かったとしても、聖霊に頼るならば誰でも伝道のために用いられます。どなたでも教会を建て上げていく働きが与えられるのです。使徒だけが伝道の担い手ではありませんでした。現代においても牧師や特定の人だけに伝道が任されているわけではありません。伝道とは教会全体がひとつとなって取り組むべきものなのですから。

彼が伝道の対象としたのは解放された奴隷の会堂に属する人々やキリキア州、アジア州出身のユダヤ人です。彼らはギリシャ語を話すユダヤ人で、ステファノと同じ文化、同じ言葉に属する人々です。同じ文化的背景ではあるのですが、その中にクリスチャンとそうでない人がいたということです。おそらく身寄りのない女性の世話をするうちに、その周辺にいる人々との接触があったために自然に伝道の働きが始まったのではないかと考えられます。

今でも同じ原則はあてはまるのです。伝道とはまず身近なところから始めることが基本です。同じ地域に住む人、同じ文化背景のある方、いつも顔を合わせる友人・知人・家族、職場の人。こういうところから広がっていくものなのです。いきなり文化背景の異なる相手にと考える必要はないのです。もちろん、ステファノの例のようにすぐに受け入れられるとは限りません。ただ、共通項があるほうが有利であるとは言えるのではないでしょうか。

彼らがステファノに反対するのは、彼らが伝統にこだわっているためです。モーセと聖なる場所とは、具体的には律法の慣習とエルサレム神殿のもろもろの儀式を指しています。彼らは律法と神殿が冒涜されたと思い込んで憎しみを募らせて訴えるのです。このふたつこそが神の民のしるしだと考えられているためです。ステファノはそうではなく、キリストを信じることこそが神の民のしるしだと主張していますので、議論が起こったのでした。

決して他人事とは思えません。今でも伝統に固執する人はいるからです。教会にも教会ならではの伝統があるかもしれません。ただし、その伝統が本当に聖書に根差すものであるかどうかは常に確かめないといけないものです。過去にこだわりすぎるあまり、硬直して身動きがとれなくなることがあってはなりません。むしろ信仰は私たちを新しくしていくものですから、変わるものと変えてはいけないものを見極める知恵が大切なのです。

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