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使徒言行録7章17節ー43節

「主なる神の手の働きによって」
ステファノは、長い説教を語る中でイスラエルの歴史を振り返っていきます。ここからはモーセについて見つめられているのです。モーセを冒涜すると訴えられているわけですから、彼がモーセをどのように理解しているかを伝える必要があるからでしょう。エジプトの王女に拾われ、当時の最高の教育を受けたモーセは、長じて同胞のために働こうとします。しかし、受け入れられずに挫折して都落ちし、私的な生活の中に閉じこもってしまいました。

自分の手、自分の熱意や情熱、自分の決心で成し遂げようとしたときには彼は挫折したのです。ほうほうの体で逃げ出すしかありませんでした。私たちの体験とも重なる話ではないでしょうか。よかれと思ってした善意が空回りしてしまう。受け入れて頂けない。思うような結果が出せない。実はこれは自力で律法を守ることによって、義を求めようとするユダヤ人たちの姿と重ねられています。彼らのあり方を痛烈に批判するものともなっているのです。

しかしモーセの人生は続くのです。主なる神がモーセを見出すのです。主なる神がモーセを召し、お立てになったのです。モーセの解放者としての働き。指導者としての奉仕。仲介者としてのつとめ。これら数々の素晴らしい働きは神の御手があったからこそ成し遂げられたことだというのです。自力の歩みでは挫けてしまうような私たちを、主なる神は恵みによって立たせて、用いることができるのだと言うのがステファノの主張です。

ところで、仲介者モーセの働きは「いのちの言葉」を取り次ぐことにあります。十戒を中心とした律法のことです。本来、それはいのちの言葉です。人を生かす言葉なのです。こと細かい規則で縛って、不自由で窒息しそうな生活を守らせることが目的ではありません。律法を絶対の掟としそれを守ることが神の民のしるしだという理解は果たして正しいのだろうかとステファノは問うているのです。律法本来の意図を取り戻そうとしているのです。

その後、イスラエルの民は目に見える神々を自分たちで作り、それを担うことによって救いの保証としようとしました。しかし、律法や神殿を目に見える救いのしるしにしようとする発想も本質的には自分たちの手で神々を作る偶像崇拝となんら変わらないのではないでしょうか。神の民とはいのちの言葉である神の約束に従って歩む者です。そこから逸れて目に見える何かで保障しようとするのは堕落だとしか言いようがないことなのです。

モーセのような預言者と言われる主イエスは、私たちを罪から解放します。神との間に立って仲介をしてくださいます。私たちを生かす言葉を恵みをもって語って下さいます。この主イエスを信じる民こそ神の民です。律法でもない。神殿でもない。たとえ荒野の中であってもキリストが語り掛ける言葉を聞くところに神の民は成り立ちます。教会とはそういうところです。神の民とされたことを感謝し、この福音を証していこうではありませんか。

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