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エズラ8章

「たとえ心配でも」
旅にたとえられる人生。エズラも実際に旅をします。バビロンからイスラエルまで。み言葉によって共同体を立て直すはっきりとした目的を持って。そのために協力者を募りましたが、気になるのはその少なさです。神殿建築のために帰還した人の数とは雲泥の差。おまけにそこには奉仕の補助者となるレビ人もいませんでした。神殿プロジェクトのような派手な奉仕には乗り気でも、み言葉にまつわる地味な奉仕には消極的だったのでしょうか。

さいわい、主の恵みによって必要な数のレビ人は確保できました。おそらく、その奉仕の大切さが説いて回られたのでしょう。教えられます。信仰生活で大切なのは時に日の当たらない地味な奉仕なのです。しかし、その地道な聖書への取り組みがいい加減になされるなら、教会形成は砂上の城のように崩れてしまう。それなら、こんなことをしてなんになると言ってはいけない。あなたのたゆまない積み重ねが必ず、力になり、教会を生かしていきます。

み言葉によって生きるとは神に信頼することと言ってもいい。だからこそ、一貫しています。ペルシャ王の好意として旅の護衛をつけることをエズラが断ったのも。多額の捧げものや調度品を携えての旅です。襲われる危険もありました。しかし、それゆえにただ神の守りによってのみ、旅は成し遂げられましたと証ししたいのです。なんの備えもなしにはとは言いません。そのために断食して熱心に神に祈りこみます。祈り抜きにやり抜けるはずがない。

私たちの人生の旅路においても、祈り抜きに目的が達成できるほど甘いものではないことを私たちは知っているはずです。だからこそ折に触れて神を求めるのです。主にひざまずき導きを求めるのです。誰かの尽力でこのことが達成できるはずだという発想が恥なのです。ただ、主によってのみ、実現したことだとはっきりと証しできる道をみすみす、つぶしてしまうこともないではありませんか。主が栄光をあらわそうとしておられると言うのに。

祈りの答えはすぐにやってきました。われわれの神の手は、我々の上にあって、敵の手から救われたとある通りです。神の助けによって、エズラ一行は無事にエルサレムに到着することができました。捧げものも無事でしたし、王の手紙を地方総督に手渡しすることもできました。感謝の思いが伝わってくるようです。祈り抜きでも結果は同じだったのでは、と言ってはいけない。祈った者だけにわかる神の恵みと確信の手ごたえがあるものなのです。

同じ神の手は私たちの上にも伸ばされています。主はご自身の目的のために用いようとされる者の上に今日も手を置いて下さるからです。奉仕にうみつかれてはなりません。自分など何もやることがないと思い込んでもいけません。自分のなすべきことがなんなのか。祈りの中で明らかにされていく。祈りの中で整えられていく。どんな困難があろうとも絶対に引けないと知っているほど、熱い主の手に握られている私たちなのですから。

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