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エズラ7章

「み言葉の人」
世の中には専門家がいなければどうにもならない状況があります。エズラも専門家でした。モーセの律法の精通した学者。今風に言えば聖書に通じた人だったのです。しかも、その専門性は、イスラエルから遠く離れた、宗教が全く違う環境下のバビロンで磨かれたことは注目に値するでしょう。彼の登場は、初代の大祭司アロン、最初の神殿時代の大祭司の登場に匹敵するほどエポックメーキングな出来事だったことが彼の系図からわかります。

学者とは言えないまでも、専門家とはほど遠くても、私たちも聖書を学び、聖書に生きようとする者でしょう。厳しい状況の日常生活に生きるからこそ、かえって神の意志を問おうとせずにはおれない。かえってみ言葉に示された神の意志に従おうと真剣にならざるを得ない。単なる頭の知識ではない。戦いにも等しい日々で、血肉となってきた御言葉。その御言葉を身に帯びたあなたも、ここぞと言う場面で必ず主に登用される機会が巡ってきます。

そういうエズラがペルシャ王の命を帯びて、エルサレムに帰還します。1200キロの道のりを四か月かけての長旅の末でした。険しい道だったでしょうが、無事に到着できたのも神の恵みのみ手があったからでした。同じ恵みのみ手が、エルサレムの神の民に律法を教える時にも伸ばされています。バビロンで通じたことが、エルサレムでも通じるとは限らない。み言葉を教え、御言葉の民を生み出すことは、主の手がないなら、不可能なことなのです。

今もそうです。教会はみ言葉によって立ちもし、倒れもします。み言葉によって形作られていかないならば、神の民とは言えない。教会とは言えない。主の手があるとは、神の民を形作ろうとする主の熱心がそこにあるということです。その熱意があるところでは、私たちもそれに答えていきたくなる。み言葉を学びたい。読みたい。従いたい。そういう思いを起こさせる主の手が私たちの上にも伸ばされているから、今日もここに集ったのです。

エズラはペルシャ王の書記官として、ペルシャ王の手紙を携えています。そこには律法を学ぶようにとの王の意志がありました。信仰のない王ですから、それはもちろんこの地域の安定をはかる国是に沿ったものではあるのでしょう。それにしても王は、少なくとも信仰の価値観を認めている。今も社会的指導者が聖書の価値を認めることは起こります。国際社会を知るには聖書の価値観は必須の教養だと認める方もおられるのに似ているでしょうか。

エズラがなぜペルシャの書記官に抜擢されたかはわかりません。しかし、少なくともそれは律法の専門家であるゆえであったからであることは確かなのでしょう。聖書に通じていることは単に教会の狭い世界だけに通用する人になることではない。広く社会に仕えることのできる人になる土台にもなるのです。キリスト者はわが国では少数派だと縮み上がる必要はありません。広い世界によき影響力を与えられる、御言葉の人よ。出でよ。

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