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ヨハネによる福音書21章1節ー14節

「主は岸辺に立たれた」
復活の主に出会った弟子たちは故郷ガリラヤに帰ります。湖での漁は主から使命を託された伝道と重ねられています。しかし不漁でした。伝道の成果が何一つ見られないのです。悪条件の厳しい時代です。ガリラヤ湖がローマ皇帝ティべリウスの名前で呼ばれる状況。しかし、復活の主はそこにおいでになられます。私たちが調子がいいから主が来て下さるのではありません。立ち直れない挫折の中に何度もおいで下さるのです。

私たちは主の復活を頭ではわかっています。しかし復活の事実が生活の現実とうまく繋がりません。その結果、主が近づいておられるのに気づかないのです。しかし、人が気づこうと気づくまいと主の不在はあり得ません。私たちの幻滅の中でもその状況をおさめて下さるいのちの主がそこにおられるのです。

愛する弟子の証言で主だと気づいたのです。誰もが同じ反応をするとは限りません。だから気づいた者から隠さず打ち明けるのです。そこに連鎖反応が起こります。きっかけは大漁の魚でした。しかし手放しでは喜べません。不漁はプロの経験も場数もコツも自信も何の役にも立たなかった無力さを露呈するのですから。

私たちが主のために何かしようとするなら、得意分野を生かすものです。ところがもっとも得意なことが役に立たなかったらどうでしょう。切るべきカードがないではありませんか。主は下手な慰めをなさいません。追い打ちをかけるようにとれていないことを確かめさせるのです。自分には力がないことを認めて砕かれる。用いられるのはそこからです。器はからであるからこそ、主が満たして下さるのですから。

舟の右側で起きた奇跡は裏を返すと漁師が素人に出し抜かれたということでしょう。そこに復活の主を見るかどうかは自分の無力さを見つめて落ち込むか、無力を承知で用いようとされる主を認めるかの違いです。喜んで証言して、落ち込む人も目覚めます。主は押し付けない。飛び込む人。船を運ぶ人。反応はそれぞれだとしても、それぞれの在り方で復活の主に近づいていけばいいのです。

岸辺に用意されていたのは朝の食事です。疲れた者をもてなすかのように主が恵みを用意してくださいます。主の用意を通して倒れそうな人が倒れないように力づけられるのです。再び立ち上がるのです。153種の魚は世界宣教の祝福とも言われます。いずれにせよ私たちに与えられた道に打ち込んでいくなら、それは必ず神の国の拡大のために用いられます。

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