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ヨハネの手紙第一2章7節ー8節

「新しい掟」
ヨハネは神の掟がなんであるのかを改めて語ろうとしています。ここで語られる掟とは主イエスが最後の晩餐の席で語られた新しい掟のことです。互いに愛し合うことなのです。ところが新しい掟ではなく、古い掟だとも言われているのです。一体どっちなのだと首をかしげたくなるかもしれません。実は教会は既にその言葉をよく聞いていたのです。初めて聞く言葉ではなかったのです。そう言う点で古い掟と言っても決して間違いではないわけです。

しかし、すでに聞いたことのある言葉だからもういいでしょうと言うのではありません。それどころか改めて語らないといけない事態に直面しているのです。何度も語り聞かせないといけないのです。それでは、なぜ主イエスがあの時、あえて新しい掟と言われたのでしょうか。しかもその掟は真実だと告げられています。主イエスにとって新しい掟が真実だと言う以上は、主イエスを信じる教会にとっても真実のはずだからです。

その新しさとは闇が去ってまことの光が輝いていると言わないといけない新しさなのです。即ち、闇が去ったと言える決定的なことが起こったということなのです。何を指しているのでしょうか。もちろん言うまでもありません。主の十字架と復活の出来事を指しているのです。主イエスが罪の闇を追い払って下さいました。それ以来、まことの光である神の愛の光がすでに私たちを照らしています。このことを決して否定してはいけないのです。

その光の中では互いに愛し合うことが現実となると約束されているのです。神の愛が心の中に働き出して実現を目指していくからです。ところが、それなのに新しい掟を退けてしまうとどうなってしまうでしょうか。それではまるで太陽がすでに昇っているのにカーテンを閉ざして光が入り込まないように遮って暗くしているようなものです。あるいは光が届いているというのに、自分で目を閉ざして光を見ないようにしてしまうようなものなのです。

異端の人たちは神秘体験を重んじます。自分は光の中にいるとさえ主張するでしょう。他の人が見えないようなことが自分たちには見えていると言いたくなるのです。しかし、それが互いに愛し合う掟に繋がらないなら、どうなのでしょうか。自分を特別視し、かえって人を見下すようではどうなのでしょうか。いかに素晴らしい体験をしようと自己満足だと言われても仕方がないのです。そういう体験はまやかしに過ぎないではありませんか。

わたしたちはまことの光が輝いている世界に移されて、生かされていることを感謝したいのです。闇の世界に逆戻りする必要などもはやどこにもないではありませんか。互いに愛し合う掟が実現できるようにと主イエスがありとあらゆるものを用意して下さったのですから。この光をどこまでも喜んで受け止めたいのです。そうやって、この約束を信じて、光の中を歩み続けるように招かれているのです。

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