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ヨハネの第一の手紙2章15節ー17節

「神の御心を行う人」
神の家族としての恵みや特権をヨハネは語ってきました。そのうえで、クリスチャンはこの世において具体的にはどのように歩んでいけばいいのかについて助言をしています。世と世にあるものも愛してはいけないとヨハネは言うのです。世を愛するなら父なる神の愛はその人の内にないとまで言われています。しかし考えてみると妙な話ではないでしょうか。ヨハネは福音書において神は世を愛されたとあるではありませんか。

あるいは主イエス自身があなたがたは世の光になりなさいとお命じになられたはずなのです。それなのにこのアドバイスには明らかに矛盾を感じるのです。答えから言うとこれは矛盾ではありません。神はこの世に生きる人々を愛して下さったのです。しかし、ここで言う世とは、神様を抜きにした秩序のことを指しているからです。神を知らず、神を認めず、神に反逆する世界でどうやって生きるかが問われているのですから。

誤解しないように気を付けましょう。別に社会からの孤立が勧められているわけではないのです。あるいは自分の趣味や楽しみを否定しているのでもありません。そんな極端な話ではなく、神様を抜きにした人生を愛するようであってはいけないことが戒められているのです。もしも、そういう人生を愛するならばどうなるのか。必然的に肉の欲、目の欲、生活のおごりといったものに引きずられていくことになると戒められているわけです。

実際、この時代にはからだを軽視して肉の欲望のまま生活することを良しとする人がいたのです。またローマ帝国の贅沢三昧の生き方は人々の憧れでした。暮らし向きの自慢をすることで自分の価値を引き上げようとする生き方。古代だけの話でしょうか。現代においても認められる傾向ではないでしょうか。ところが教会はこういう価値観とはまったく無関係な場所なのです。それで人の価値が決まるわけではないと打ち消す必要があるでしょう。

それでは、どうして世と世にあるものを愛してはいけないのでしょうか。理由も明らかにされています。これらのものはいつか消え去ってゆくものに過ぎないからだと言うのです。それどころか神様抜きの人生は結局破滅に向かうと言うのです。ところが、神の御心をおこなう人生に生きるなら、決して失われることがないと約束されているのです。御心とは決して難しいものではありません。主イエスキリストを信じること。これに尽きるのです。

それなら、私たちはどのようにしてこの世の中と関わっていけばいいのでしょうか。禁欲的に生きろというのではないのです。好きな趣味があれば楽しめばいいでしょう。やりたいことがあれば挑戦してみてもいいのです。ただいつも神様を礼拝し、神との交わりに留まり、感謝するのことを中心に置くのです。もはや自分にはキリスト抜きの人生は考えられないと告白し、証をするのです。これからも主イエスを信頼して歩んでいくことができますように。

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