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エズラ9章1節ー15節

「危険を避けて」
現実のひどさに打ちのめされそうになることがあります。エズラがそうでした。律法を民に教えようと意気揚々と帰ってきたはずです。ところが彼が見た光景は、民が別の異民族と結婚している姿でした。別に国際結婚が悪いわけではありません。ただし、結婚相手の宗教の影響を受け、信仰が純粋さを失っていくおそれがあるなら大問題なのです。民はこの地で有利に生きていくことを願って、不純な動機で異民族と関係を持ったに過ぎません。

私たちも気をつけないと主にどれだけ愛されているかを忘れます。信仰の純度を保つことがどうでもよくなってきます。主が愛のゆえにお命じになったことがあまりにも非現実的すぎると退け、その場その場の人間関係だけでなんとか切り抜けようとする安易な道に流れていってしまいかねないのです。人間関係重視、現実路線。その考えそのものは間違っていないにせよ、信仰を骨抜きにさせかねない誘惑があることを警戒したいのです。

エズラが動揺しながら主にとりなし祈るのはもっともでした。何がショックかと言って、民が過去から何ひとつ学んでいなかったことほどの衝撃はないのです。そもそもイスラエルが滅びたのは、偶像崇拝と信仰との境界がぼやけて、純粋ではなくなってしまったからだったはずなのに。あれだけ痛い目にあいながら、それなのに再び同じ過ちを犯す愚かさ。民は神が何を喜び、何を悲しむかについて何もわかっていないことが浮き彫りにされています。

身につまされます。人は一度失敗したくらいでは懲りない存在なのでしょうか。ほとぼりが冷めたら、また同じ過ちを繰り返すものなのでしょうか。確かに神のあわれみによって国は解放されました。神殿も再建されました。それなのに、神のあわれみさえ、自分の都合のいいように消費するのみで、その愛に決して答えようとはしない鈍さがあるのでしょうか。自分はなんのために選ばれ、救われたのかを自覚できない以上は。

もしも希望があるとするならば、どれだけ暗い罪の現実を知ろうと、それでも嘆いてとりなそうとするエズラの祈りがあることにおいてでしょう。実際には、何をどう祈っていいかわからないほど呻く現実はある。神のあわれみさえあしげにし、十字架の恵みでさえも、いいようにすり替えるなら、もはや主のあわれみさえ求めていいかわからない。できることは私たちの問題でもあると受け止めて罪を告白することのみです。

主のゆるしなしには地の塩として立ち得ない。主の愛がわからずして、世の光として立ち得ない。信仰に純粋であろうとすることにどこまでも留まることはできるでしょうか。信仰のアイデンティティを保つために戦う覚悟はあるでしょうか。私たちのクリスチャンとしての独自性は確かですか。召しには答えることが求められます。あわれみには応答することが期待されます。私たちの選びと召しを揺るがせることがありませんように。

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