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使徒言行録5章17節ー25節

「いのちのことばをことごとく」
エルサレムの教会の様子を尊敬しながら遠巻きに眺める人々や、信仰に導かれる人々がいたことを学びました。一方、別の感情に動かされる人もいたと言うのです。大祭司を頂点とするサドカイ派の人々。彼ら宗教的権力者が使徒たちを捕らえ、留置場に入れる動機はねたみに燃えてのことだったとはっきりと告げられているのです。福音宣教が必ずしも好意的に受け止められるとは限らないことがわかります。反対も批判もあることでしょう。

注目すべきは大祭司たちが無視できないほど福音宣教の働きが目覚ましかった点ではないでしょうか。実際、些末な働きであるなら、何もねたみに駆られることなどなかったはずです。権力にあぐらをかく者が危機感を覚えるほどの働きでした。しかも使徒たち全員をとらえることを計画するほどの焦燥感であったことを物語ります。今でも福音宣教の働きは相手がなんらかの反応を起こさずにはおれないほど影響力のあるものだと覚えましょう。

ところが、逮捕されたはずの使徒たちが主の天使によって解放された奇跡が起こったというのです。迫害が危険だから今すぐに逃げろとでも言うのでしょうか。あるいは危機が過ぎ去るまでおとなしく息を殺していろとでも言うのでしょうか。いいえ、天使は使徒たちにこのいのちのことばをことごとく告げるように命じるのです。しかも舞台は町の片隅などではありません。宮の真ん中、参拝客が大勢集まる衆人環視の前で、なのです。

いのちのことばは、ことごとく語られる必要がありました。即ち、まだ一部分しか伝えていない状態をよしとはされない神がおられます。宣教が途中で挫折してしまうことを主なる神様はおゆるしにはなられません。しかもそれは教えとも言われているように、信仰教育の目的もありました。信仰を持ったのだから、一丁上がりだという即席さは神様にはありません。むしろ神はこの奇跡を通じて十分な教育と伝道の重要さを伝えておられるのです。

使徒たちにしても神の思いを真っすぐに受け止めて答えたことがわかります。だから、彼らは早くも夜明け前から彼活動を始めたとあるではありませんか。一刻の猶予もないほどの熱心さと緊迫感が伝わってくるかのようです。そのうちいつか気が向いたらという話ではありませんでした。風向きがよくなってからと状況の推移を見守っていたのでもありません。彼らには与えられた機会を最大限生かそうとする前のめりさがあったのでした。

いのちのことばをとどめることは誰にもできません。なるほど、もちろん迫害はあることでしょう。逆風も吹くことでしょう。だからといって、それを福音を伝えない言い訳にしていいはずがないのです。いつだって悪条件はあることでしょう。しかし私たちが救いに導かれたのはこの福音をひとりでも多くの人に証しするためなのです。これこそが人生の最優先順位でなくて何でしょうか。いつの時代も福音を伝えるのは天使ではなく人なのですから。

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