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使徒言行録7章1節ー16節

「栄光の神の約束」

最高法院に引き渡されたステファノは大祭司の前で説教を始めます。長い説教を何回かに分けて学びましょう。その殆どは旧約聖書に記されたイスラエルの歴史です。死刑が待つ裁判の席で悠長にも思えます。しかしここに彼の信じていることが告白されています。まず語られるのは族長アブラハムです。大切なのは信仰とは旅立つことだという点です。物理的移動とは限りません。今までの考えから離れて約束のみ言葉を信じて歩むことが信仰です。

土地を子孫に所有させる神の約束はありました。しかし現実には子はおらず一歩の幅の土地さえ与えられてはいないのです。これによって律法や神殿といった目に見える保証を神の民の証とする間違いが指摘されているのです。アブラハムの時代には律法も神殿も影も形もなかったのですから。神はあらゆる方法で礼拝されるのです。神の民とはみ言葉の約束を信頼して歩む者。栄光の神は場所にとらわれず、いつでもどこでもともにいて下さいます。

ステファノが見つめているもう一つは割礼です。当時、割礼こそが神の民である目に見える拠り所だと重んじられていたのです。ところがアブラハムを見ると、もともと割礼とは神の約束を信じる告白として受けるものだとわかるのです。決して割礼が人を救うわけではありません。やがて割礼は教会の洗礼に受け継がれます。しかし洗礼自体が人を救うのでもありません。神の救いの約束を信じる告白として公に受けることに意味があるのです。

だからと言って洗礼に価値がないというのでもありません。私たちは弱い者であって果たして自分は本当に救われているだろうかと揺れる場合も起こることでしょう。その時に洗礼の恵みが支えとなります。確かに自分は何年何月何日、み言葉の約束を信じて洗礼に預かったではないかというからだに刻まれたしるしが力となるのです。実際、洗礼に預かって以来、紆余曲折はあったとしても神はずっと私たちの信仰を支えて下さったではありませんか。

次にステファノが目を向けるのはアブラハムから四代目に当たるヨセフの逸話です。ここで語られるのはエジプトに売り飛ばされたヨセフの数奇な人生にも神がともにおられたことです。奴隷だった彼はやがて大抜擢されて外国人の身でエジプトの大臣の立場に立つのです。これが飢饉の中にあるイスラエルが生き延びる布石となるのです。どんな環境に置かれても神の計画は揺るがない。神の約束はこういう形でも実現することが証言されているのです。

なるほど、弟ヨセフを嫉妬から商人に売り飛ばす重い罪がありました。無実の罪で牢獄に入れられる理不尽な現実も通りました。そういう闇の中にも神は一度誓った約束を破ることなく、果たして下さいました。それはバビロン捕囚によって国を失い離散したイスラエルの現実とも重なるのでしょう。私たちはどのような目に見える現実にも打ちのめされてはいけないのです。ひたすら栄光の神のみ言葉の約束を信じて歩もうではありませんか。

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