見出し画像

ヨハネの第一の手紙2章9節ー11節

「原因と結果」
自分がどこにいるのかを確かめておくことは大切です。自分は光の中にいる。これが異端の人たちの言い分でした。特別な啓示の光を受けたと言うのです。ところが、実際は兄弟を憎んでいる。その姿が光の中にいると言えるのだろうか。むしろそれは闇に留まっている状態ではないかとヨハネは指摘しているのです。相変わらず相手を憎んだり、争ったりしているとするなら、自ら闇の中にいることを露呈しているようなものなのです。

闇の中に留まろうとするなら何が起こるのでしょうか。目を閉じて歩くことを想像すればわかるのではないでしょうか。必ず何かにつまづくことになるでしょう。信仰がつまづいてしまうのです。神からも教会からも離れてしまうことでしょう。愛することや赦すことを止めて、憎しみに支配されるなら、つまづくのです。実際、つまづきは人間関係の中で起こるのではありませんか。誰かのせいで自分は傷つき、幻滅したと言いたくなるものなのです。

しかし、実際はそれが理由ではないのです。原因は自分が愛することを止めてしまったことにあるのです。もっとも憎むにはそれなりの事情があるのでしょう。しかも、いかなる事情であれ、自分が正義の側に立って相手を裁いているはずです。相手が悪いと思っているのです。ところが正義感を抱えたまま、進んでいくことは極めて危険な状態だと言わざるを得ないでしょう。異端だけの話に限りません。自分を正しいとする自己義は罪なのです。

これを放置したままなら、どうなると言うのでしょう。自分がどこに進んでいくのかわからなくなってしまうと言うのです。それはやがて滅びにも向かいかねない道なのです。従ってもしも自分が相手を憎んで自分の正義にこだわる闇の中にいると気づかされたならば、そこで立ち止まる必要があるでしょう。光である主イエス様のもとに引き返すのです。主のもとで互いに愛し合う掟を何度もくりかえし思い起こし、和解の手を指しのばすのです。

私たちは刺激を求めやすい者です。もっと斬新な教えを聞きたいと望むかもしれない。もっと最先端の流行に真実があると思い込むかもしれません。他人と違って自分は特別なのだと評価されたい。しかし、主イエスがくりかえし教えて下さるのは互いに愛し合う掟なのです。どれだけ時代が変わろうと決してそこから離れてはいけないのです。主の十字架と復活によってもたらされた、この光の中に留まる必要があるのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?