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私が「JR福知山線脱線事故の2両目」で経験したこと

※2005年4月25日に発生したJR福知山線脱線事故での経験を、事故後、1年半のときに書き残した記録です。

2005年4月25日、生まれて初めて「死」を意識する出来事に遭遇しました。107名の方が亡くなったJR福知山線の脱線事故に遭い、その中でも最も被害が大きく70名以上の死者を出したと言われている(2005年6月現在の情報)2両目に乗り合わせていました。これまでにも「死」という概念を頭の中では理解していたつもりでしたが、死は歳の順に順序通りにやって来るか、仮に病気や事故で死を迎えるにしても、何らかの形で死を覚悟する瞬間のようなものを通過してから訪れるものであると考えていました。
しかし今回の事故では、脱線しはじめてわずか数秒後にマンションに激突し車両が大破しました。安全と思われていた電車の中で、同じような場所で同じような条件の中にいたにも関わらず、その数秒の間で生と死が分かれてしまいました。その死は、私が考えていた「死」というものとは全く違う形でやって来て、何の前触れも無く突然多くの方の命を奪いました。

事故直後の凄惨な現場の状況はあまりにもひどく、現在でも脳裏に焼き付いて離れません。その悲惨な状況とは不釣り合いな静けさの中で、助けを求める呻き声や人が動く物音、現場周辺の独特の異臭などが強烈な印象で残っています。事故の当事者として、自分で見て感じた事を出来るだけ正確に書き留めておきたいと思います。

■ 2005年4月25日(月)


事故当日、午前8時42分に出勤のためいつも通りの時間に自宅を出ました。電車が来る4、5分前にJR生瀬駅に着き、56分発の大阪行き普通電車を待ちました。生瀬駅の前方には喫煙場所があり、私は煙が流れて来ない駅の階段を上った少し前あたりでいつも電車を待っています。定刻通りに電車がやって来て、いつもと同じ場所に乗車しました。
その車両の中には、いつも乗っておられるので顔を覚えているご夫婦のうち、旦那様だけが乗車されていました。宝塚駅に着き、同じホームの向かいに止まっている東西線に乗り換えるため、一旦下車しました。本当は同じホームで大阪行きの快速に乗り換える方が便利なのですが、宝塚駅が始発となる東西線の方が尼崎駅まで座って行けるので、大阪方面に向かう人でもこの電車に乗り換える方が多くいます。
下車後、いつも通りその旦那様も2両目に乗られたのを覚えています。私も2両目に乗り、進行方向に向かって右側の後ろから2つ目のドア横の席に座りました。9割方は座る事が出来るのですが、座れなかった時にはいつも1両目の一番前に移動して立っていました。もし座る事が出来ずに1両目の先頭に立っていれば、私は恐らく死亡していたと思います。私が座った後に、生瀬から乗車した男性が私の左隣の席に座りました。

この時間帯は通勤ラッシュから少し外れており、発車する段階でも立っている人が各車両に十数名ぐらいの比較的ゆったりとした状態で、その日もいつも通りの混み具合でした。生瀬から乗車してきた普通電車が先に発車し、その後同じホームに特急北近畿号が定刻通り入って来ました。この北近畿号は日常的に1~5分遅れて宝塚に到着する事が多く、その出発を待ってから発車する9時3分発の東西線も常に遅れていました。
しかし、その日は東西線の快速電車も定刻通りに宝塚駅を発車しました。私はその日、電車の中で眠っていましたが、中山寺駅と川西池田駅で目が覚め、川西池田駅で車内の吊革が全部埋まるぐらいの混み具合になったのを覚えています。川西池田駅を出発した後は、本格的に眠ってしまったようで何も覚えていません。伊丹駅で起きたオーバーランにも気づきませんでした。

私が目を覚ましたのは、車体が「ガタガタ」という振動と共に揺れはじめた時です。「もしかしたら脱線したのでは…」とその時に感じたのを覚えています。その数秒後、立っている方が前方に滑るように流されて行くのが見えましたが、その段階で電車はかなりのスピードだった様な気がします。はっきりとは覚えていませんが、その時間は恐らく2、3秒のわずかな時間だったと思います。脱線ならばそのうちに止まるのではないかと思い、それ程恐怖も感じませんでしたが、次の瞬間のもの凄い衝撃で、私を含む座っている乗客が飛ばされて行きました。
その時はマンションにぶつかった事など想像もしていませんでしたが、車体が何かに蹴つまずいたような印象を受けました。1秒ほどの記憶でしょうが、空中を飛ばされている記憶があり、自分の下にも同じように飛ばされている人がいたのを覚えています。まるでプラスチックの卵パックを手で握りつぶす様に、飛ばされている空間が一気にメチャクチャに壊れていきました。メリメリと車体がつぶれ、自分たちがいる空間がどんどん無くなって行く様子がわかりましたが、自分が何処にぶつかり、どのような形で静止したのかはわかりません。

ずいぶん後になって事故当時欠落していた記憶の一部が蘇り、夜中に突然目が覚めました。写真のワンショットのような記憶ですが、私は上下左右に掻き回される事も無く、瓦礫の固まりのようになった車内をほぼ一直線に飛ばされて行ったように見えました。これが正確な記憶と言えるものなのかはわかりませんが、これまでに自分がくり返し頭の中で反芻してきた映像とは違う場面でした。しかし、その先で何処にぶつかり自分が止まったのかは思い出す事が出来ません。

電車が停止してすぐに意識がありましたので、気を失ってはいなかったようです。眼鏡はそのまま顔に張り付いていました。電車が止まった時に私が飛ばされていた場所は、2両目の車体がマンションの角に激突して折れ曲がったところから、少し大阪方面寄りのマンション駐輪場通路側でした。車両は大破しており、どちらが上か下なのか、ドアがどこにあるのかも分からない状態でしたが、私がいた空間は車体が大きくえぐられており、天井から側面まで丸ごと裂けて剥ぎ取られた様な状態でした。
その部分は車内とも車外とも言えるような場所で、上部から降り注ぐ光によって凄惨な現場をはっきりと確認する事が出来ました。車両の下からたくさんの人が積み重なり、その間に外れた座席が挟まって山の様な状態になっていました。その山の上の方に、私の右足太腿から下が挟まっており、足1本で上から宙吊りにぶら下がっている様な状態でしたが、体勢を立て直すために私のすぐ目の前にあったマンションと線路を仕切る鉄板に掴まって、腕の力で体を上向きに引き上げました。この茶色の鉄板は、強度を増すための凸凹の溝が横に走っており、そこに指を掛ける事が出来ました。

2両目が激突した柱から、マンション駐輪場の通路に沿って建てられていたこの鉄板は、事故直後2枚目までが垂直に立っており、進行方向に向かって3枚目が通路側に少し倒れていました。私がぶら下がっていたのは、この2枚の鉄板と車体との間に出来た、わずか1メートルほどの空間ですが、ぶら下がった状態のままで「倒れた3枚目の隙間から脱出出来る」と思ったのを覚えています。マンションへの衝突や、2両目に激突した3両目の衝撃があと少しでも強ければこの生存空間が押し潰されていたと思います。

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