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コート・ダジュールと南仏の画家たち②

 カンヌ駅から地中海線を東に進む。ここから先は右手に紺碧の海が続く、フランスきっての景勝路線である。背景に山が続き、海と山の間の僅かな土地めがけて、世界中から多くの観光客が押し寄せる。
 この地方は和辻哲郎も云うように、フランスの中では変化に富んだ地形となってはいるが、例えば伊豆あたりと較べれば、受ける印象はやはり違う。伊豆ほど変化は小刻みではなく、全体のトーンも一定である。また伊豆のような野趣な感じはそこにはなく、整っている。透き通ったトーンのなかに、あらゆる瀟洒な欠片が嵌め込まれてある。その美しさが、世界中から人を惹きつけるのである。
 観光客の多いこの路線の本数は、パリを除けば最も多い。たとえフランス特有の、時刻表から突如列車が消える事象に見舞われたとしても、この地域はさほど不便ではない。15分も待てば、次の列車はやって来る。待つ時間も含めて、光や風を感じる。それもまた、旅のひと時である。
 さて、話が横に逸れた。列車は思念が横に逸れる間もなく、10分ほどでアンティーブに到着する。
 駅を出るとすぐ、海に出る。そこは無数のヨットが並ぶハーバーになっていて、海全体がきらきらしていた。街へ入る最初の印象として、この光景は鮮烈である。瀟洒な感じはしても豪奢な感じはしない。それは街に入って行くとより顕著になる。
 ヨットハーバーを海岸に浴って歩いて行くと、旧市街の入口に至る。なかへ入って行くと、細い路地が入り組んでいるのはどこの旧市街も同じだが、センスのいい垢抜けた感じがある。しかしカンヌのような小綺麗な感じとも少し違って、旧市街独特の渋味もある。
 歩いていると、心が躍る。どの路地へ入って行っても、何かきらきらした瀟洒な欠片のようなものが散りばめられている。そういえばキャンバスを置いて絵筆を走らせている人をちらほら見かける。それが似合う街でもある。
 アンティーブは小さな町だが、これまで多くの画家を惹きつけてきた。1888年1月、この町にやってきたモネは、四ヶ月の滞在中に38点もの作品を手がけた。当初は3月にはジヴェルニーの自宅に戻る予定だったのを二ヶ月延ばすくらい気に入ったようである。
 19年秋に上野の東京都美術館で開催されたコートールド美術館展で最初の部屋にあったのが、モネの「アンティーブ」である。前景に浮世絵を思わせるような構図で松の木が斜めに伸び、画面の上でそれが切れている。松の木越しに地中海を臨み、海の向こうに湾曲する海岸線の先に山脈が描かれる。日本にも愛媛県美術館に同じ構図の作品がある。
「積みわら」や「ルーアン大聖堂」などでみられるように、モネはここでも刻々と移り変わる光景を描いて行った。私が訪れた日はよく晴れてはいたが、あまりの暑さからか、海の向こうの山脈は溶けるように、空にぼやけていた。
 1913年、サン・トロペからこの地へやってきたのがシニャックである。彼は港町の光景をよく描いた。その画面は、海も空も建物もヨットも、すべてが点で描かれる。しかもそれらすべてがあらゆる色で点描されるため、近くで観ると判りにくい。しかし画面から離れて観ると、そこには眩い光景が描出される。光を感覚的に捉えたのが印象派なら、シニャックら新印象派は理論的にそれを追った。
 盟友スーラを喪ったシニャックは、自身のヨットで南仏へと旅立つ。私はこれまでの展覧会で、南仏の港町を描いた彼の絵を何点か観てきたが、その中にアンティーブはなかったか調べてみた。すると、ストラスブール美術館所蔵の「アンティーブ、夕暮れ」を、東京の巡回展と本場の両方で観ていたことを知った。いかにもシニャックが描く港町の眩い情景だが、どこの港町なのかは判りにくい。
 何にしてもシニャックは、パリのクリシーでガスタンクを描いていた頃から鮮やかな色使いで、やがてそれはマティスらに受け継がれる。印象派、新印象派、フォーヴィスムと、一人で橋渡ししたとも言えるその画業は、大変興味深い。
 旧市街をなかへ歩いて行くと、俄かに空が展けた。そこは教会のある広場だった。よくある旧市街の光景だが、教会の隣には堅牢な要塞がある。海に向かう高台へスロープが伸び、そこにある往時の城砦グリマルディは、現在はピカソ美術館になっている。ピカソはここにアトリエを構えた。
 中に入る。下層階には現代抽象画が並ぶ。一面ほぼ真っ黒な絵や、一筆書きを走らせた絵などが、広い空間の中に置かれている。これはこれで鮮やかだった。上層階は自然光が全面に行き渡る気持ちのいい空間に、ピカソの不思議な絵が並ぶ。
 両脇の二体の彫像に守られるように、謎の動物が描かれた三面の屏風絵がある。これなどはどう見ても子どもの落書きにしか見えない。ピカソは一部コンポジションの作品に、思わず惹きつけられるものもあるが、多くは正直なところよく解らない。館内には彫刻や器なども合めて、ピカソがこの地で制作した作品が並んでいる。
 テラスに出た。海が一望できる。塀の上にはミロの彫刻もある。「海の女神」と名付けられたその彫刻は、細長く垂直に伸びている。垂直線の彫刻越しに、水平線は静かに拡がる。何艘か船が見える。海はきらきらしている。
どこからか風に乗って、弾けた声が聞こえていた。アンティーブの穏やかなビーチは、浮ついたところのない、地元っ子たちの遊び場である。若者たちは隣町のジュアン・レ・パンの海へ繰り出して行く。

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