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ル・コルビュジエ建築探訪 後編③

 スイスのラ・ショー・ド・フォンで生まれたコルビュジエは、かねてからアルプスを越えた先、地中海に憧憬の念を抱いていた。それは明晰な建築理念に表れるばかりか、実際にその浴岸に夏の休暇小屋を持つに至った。カップ・マルタンの「キャバノン」である。
 1952年、青く透き通った海を見下ろす絶好のロケーションのこの地に、コルビュジエは8畳ばかりのログハウスを建てる。しかしこの地は元々、彼が見出したものではなかった。
 遡ること23年前の1929年、この地にモダニズムを体現した白い邸宅が完成した。アイルランドの女流デザイナー、アイリーン・グレイの「E.1027」は、サヴォア邸よりも前に、コルビュジエの提唱する「近代建築五つの要点」を先取りしていた。
 土地への憧憬と、建築への若干の嫉妬が入り混じったコルビュジエは、この地に通い続けるようになる。
 この件りは日本で17年に公開された映画「ル・コルビュジエとアイリーン・追憶のヴィラ」に詳しい。私はこの映画を観て、この一連の建築群を見たいと希った。19年、機は熱したのである。
 モナコとマントンの間に位置するカップ・マルタンは無人駅で、各駅停車しか止まらない。駅前にはコルビュジエとアイリーンの顔が描かれたモダンな観光案内所があり、何もない辺り一帯でそこだけが目立っていた。
 一連の建築群へは自由に出入りはできず、京都の桂離宮のように事前に日時を予約しなければならない。ツアーガイドはフランス語だったので、私は2時間みっちり上級フランス語講座を受けることになった。
 コルビュジエ、アイリーンと、編集者ヴァドヴィッチの微妙な三角関係は映画を観て知っていた。またコルビュジエの建築の予備知識も多少なりともあったので、辛うじて話の概要は摑むことはできたが、フランス語での細かい話にはまったくついて行けなかった。
 それはともかく、19年6月28日午前10時。私は何かきらきらしたものでも採取する探検隊のような面持ちで、これまでに何度もイメージしてきた敷地に分け入った。
 中へ入り、階段を少し降りる。するとすぐに、キャバノンが目の前に現れた。文字通りの小さな丸太小屋である。さらに驚愕したのは、その隣にある建物だった。
 建物というより、それはただの物置きにしか見えない。実際に物置きをくり抜いて窓にして、白と緑に彩色しただけの、極めて簡素なものだった。中には大きな作業机があるだけで、その上に丸眼鏡が無造作に置かれてある。ここが噂に聞いていたアトリエか。私は絶句した。いくら夏の間だけとはいえ、世界的な建築家がこれはないだろう。しかし同時に、私は共感もしていた。
 それは、隣のキャバノンに入り、よりはっきりした。丸太小屋の中は簡易ベッド、備え付けのテーブルと椅子、洗面台など、必要最小限のものしかなかった。
 海のパノラマビューはなく、隙間のように小窓がいくつかあるだけである。しかし見えなくても、そこに海があるという感じは確かにある。別荘というよりは、隠棲の場に近い。それも、飛び抜けて明るいロケーションのなかに、方丈記を思わせるような空間があるというのが面白い。それぞれの小窓は絶妙な位置にあり、光の差し込み方がこの空間をこれ以上ないものにしていた。
 8畳間のその空間は、ところどころからの巧みな採光の中、すべてが手のひらサイズで、あるべき場所にあった。私は思った。最大の質素が、最大の贅沢である、と。
 しかし、大事なものが欠けている。バスルームがなく外にシャワーがあるだけというのは夏だからいいとして、キッチンがないのはまずいではないか。この問題の答えは小屋のドアのすぐ外にある。
 ドアを開けるとすぐ、もう一つのドアがあり、開けると食堂だった。つまりドアツードアで飯を食いに行ける。さらにその隣には簡易型のゲストハウスも併設していて、気の合う仲間と食堂のテラスで話らい合うこともできる。そしてこれらすべての前には、青く透き通った地中海がある。
 寝て起きて、光を浴びて、図面を描いて、また寝転んで、海で泳いで、計画《プラン》を練って、また寝て起きて・・。
 本当の意味での贅沢で、理想の生活がここにある。夏のひと時をこういうところで過ごせたら、どんなにいいだろう。
 食堂ひとで軒は、洒落た海の家といった風情で、隣の5部屋あるゲストハウスは、簡易ベッドが置いてあるだけの空間にモンドリアンの絵のような天井が映える。
 それらを抜けて行くと、それまでの田舎風の建物からは一変して、白い瀟洒な家が下に見えてくる。さもコルビュジエ然として建っているこの建築が、「E.1027」である。
 このモダニズムを先取りしたアイリーンの作品の名義は、恋人のバドヴィッチになっていた。そしてバドヴィッチはコルビュジエの友人でもあった。前から気になっていたこの建築に、コルビュジエは滞在する機会を得る。そうして毎夏通い続けるうちに、事件は起きた。
 1938年、いつものようにそこで制作をする延長で、何と壁に8点ものフレスコ画を描いてしまう。設計者アイリーンに何の断りもなく、白一色のすっきりとした壁は、グロテスクで躍動的な絵に塗り替えられてしまった。芸術家の家に芸術家が作品を遺したこの事件は、建築レイプ事件として知られる。映画では、そんなコルビュジエの人間的な面が描かれる。
 坂を降りて、外から白い家へ階段を上がる。一階はピロティになっていて入口は二階にある。玄関を開けると、いきなりコルビュジエのフレスコ画が目に飛び込む。強烈である。
 しかし中に入って行くと、シンプルですっきりとした空間が拡がる。海を臨むテラスと一体となった、広く明るいリビングの一隅には、ベッドが置かれる。1929年当時に、寝室と居室を一緒にしたというのが凄い。そのワンルーム空間には、アイリーンのデザインした家具が置かれる。ベッドの脇には代表作のアジャスタブルテーブルもある。
 洗面所やバスルームなども含めて、デザイナーらしく非常に洗練された造りと空間構成になっている。以前にはベッド横の壁にもあったコルビュジエのフレスコ画は、現在は入口とその先にある導入部だけとなっている。
 荒れ放題になっていたこの建築は近年修復され、その時に邸宅と壁画の共存が図られたのである。折からの強い陽を受けた海の眩い青に呼応して、白い家はさらなる輝きを増していた。
 
 
 1965年8月27日。コルビュジエは近所に住む婦人との立ち話に興じた後、いつものように眼下に拡がる海に入って行った。泳ぐことが大好きだった稀代の建築家の最期の地が、私も浸かったこの、カップ・マルタンの海だったのである。海水浴中の心臓発作が原因らしい。地中海に憧れ続けた建築家は、地中海に抱かれるようにして、その生涯を終えた。
 そんな彼の墓は、海を見下ろす丘の上にある。丘といってもそこは、崖のような急斜面を登って行く。登った先にある村を越えて右に逸れて行くと、急斜面に浴って墓場はあった。
 駅前の案内所で言われた通りに階段を上がり、Hのエリアに辿り着くと、それはあった。海岸までの距離は近いが、角度が凄いので海は絶景の中にある。スイスの奥地から地中海を目指したコルビュジエは、思い出のいっぱい詰まった小屋と海を、いまも上から見守り続けている。
 パリとポワッシー、ロンシャン、リヨン、マルセイユ、そしてカップ・マルタンと、私が巡ってきただけでも、様々な建築があった。依頼主の意向もあるが、それでも建築家自身の表現方法も形態もそれなりの変化がみられた。自律的で堅固なモダニズムから、表現が迸るアバンギャルドまで変遷したと人は言うが、その建築の本質は変わらない。コルビュジエの建築のなかにあるものは、モダニズムでもないしアバンギャルドでもない。
 コルビュジエはどんな建築家かと問われて結局思うことは、人の精神の働きを信じ、その感覚の奮い起こされる空間を創出すること。それが「人間の家」であり、人間の過ごす場所である。打ち出す理念や現れる形態は、そのための記号と言っていい。
 住宅は住むための機械である。それは、普段は感知しない感覚を内奥から呼び起こし、その精神に働きかける機械なのである。

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