見出し画像

地方へ リヨン

 パリから南東へ470km、TGVで2時間も走れば、フランス第二の都市、リヨンに至る。TGV駅は市街地から少し離れているので、バスかメトロで移動する。リヨンの市街地は、アルプスに端を発し地中海へと注ぐローヌ河と、その支流のソーヌ河が落ち合うところに形成される。
 イタリアからフランドルへ至る交通の要衝に位置するリヨンは、中世には絹織物などの交易で栄えるようになる。ルネサンス期になると、フィレンツェやジェノバなどイタリア商人との繋がりから、金融業が盛んになる。ブルボン朝の絶対王政期までは、リヨンはパリを凌いでいたとも言われる。現在もフランスの銀行の多くが本店を置く金融都市でもある。ちなみに永井荷風は横浜正金銀行のリヨン支店に駐在していたことがあり、その頃の体験が「ふらんす物語」に著されている。
 映画の発明者リュミエール兄弟を生んだ町としても知られる。エジソンの覗き眼鏡方式とは違って、スクリーンに映して大勢の人に見せる動画は、当時としては画期的なことだった。工場から出る人々や、駅に汽車が到着するシーンだけで、観衆は驚嘆した。ちなみに京都の実業家、稲畑勝太郎が留学生としてリヨンに派遣された時の同窓にリュミエールがいた。その縁で稲畑はこの技術を輸入して、日本での映画興行に漕ぎ着けている。
 またリヨンは、美食の街としても知られる。フランスの他の地方に較べて、リヨンのあるローヌ・アルプは、まず水に恵まれている。周囲にはブルゴーニュやフランシュ・コンテもあり、肉やチーズ、ワインなど食材の宝庫である。加えて、料理文化の先進地だったイタリアと繋がりが深かったことも手伝って、豊かな食文化が育まれて行った。ヴェルサイユの宮廷料理と違って、伝統的な家庭料理が一級を獲得した。巨匠ポール・ボキューズを生んだのも、リヨンである。
 
 
 リヨン市民の憩いの場、ベルクール広場から目抜き通りを北上して行くと、全体としては軽快ながらも、どこか重厚な街の骨格が見えてくる。二つの河に沿った、きらきらと光り輝く麗しい街の中心には、金融都市としての面影は確かにある。ロンドンなどの金融街とは違って、様々な商店の間々を銀行などが埋めている感じである。
 15分ほど歩いて行くと、一風変わった建物が現れる。石造りの劇場風の建築の上に、かまぼこ型をしたガラス張り建築が載っている。この奇抜な建築の正体はオペラ座で、ジャン・ヌーベルの作だという。オペラ座自体は1831年よりこの地に存在し、永井荷風もここでオペラを観ている。150年の時を経て建て替えとなった時、ジャン・ヌーベルは石造りの外観のみを残して内部を一新し、上部にお得意のデザイン性豊かなモダン建築を重ねた。
 二層部分の石造り建築の上に七体の彫像が市民を見下ろし、背後では無機質なガラス張りがアーチを成している。それはどこか場違いな感じがしないでもなかったが、一方で、思わず納得してしまう存在感があった。夜になると彫像がライトアップされるというのも面白い。
 そこから市庁舎を抜けて西へ歩いて行くと、ソーヌ河岸に出る。橋を渡ると旧市街である。目の前には丘が控えていて、旧市街は丘に沿って、左に続いている。
 さらに直進すると右手下にサン・ポール駅が見えてくる。地方線の発着駅で、四両の列車が三つばかり並んでいた。ホームの向こうには教会があり、周囲には暖色系のカラフルな家並みが拡がる。ホームを挟んで、空の下に教会とそれら家並みが拡がる景色は妙に印象的だった。そこだけリヨンでないような、どこか知らない街に連れ去られたような、不思議な感覚があった。
 細い路地を真っすぐ進み、長い階段を登って行く。片側は家々がリズミカルに続き、一方は切り通しによる高い壁が空へと伸びていた。
 十数人の中学生らしい集団と擦れ違った。下校時の光景だろうが、彼らはみな私服で、思い思いに話を弾ませながら階段を下りている。その感じが、妙にこの景色に合っていた。京都東山の南禅寺界隈の傾斜地を歩いた時にも、似たような光景に出くわしたことがあったのを私は思い出した。もちろん周りの景色も生徒たちの風習も違う訳だが、景色にも生徒たちにも、どこか通底するものがあった。
 階段を登りきって左に曲がる。そこまで来ると傾斜は緩やかになる。この道は北側からフルヴィエールの丘を登るルートで、南側にも同様のルートがある。真ん中の直登ルートをケーブルカーが結ぶ。
 頂上の広場からは、リヨン市街を一望できた。丘の下を流れるソーヌ河の手前には、旧市街が拡がる。一際大きな建物はサン・ジャン大聖堂。ソーヌ河と街を挟んだ向こうにも、並行して緑の帯があり、そこがローヌ河である。二つの河の間に拡がるのは金融都市リヨンの中心街で、先刻あそこを歩いてきた。ベルクール広場からオペラ座まで、よく見渡せる。望遠レンズで覗けば指呼の間と言える距離である。
 ローヌ河の向こうには新市街が拡がり、高層ビルが二つ。高い建物は他にはほとんどなく、遥か向こうまで市街地は続いていた。フランスの地方都市はたいていは市街地は広くはなく、少し進むと見渡す限りの畑や牧草地が拡がるのだが、リヨンは違った。都市圏としてはフランス第二位というのがよく判る。
 ケーブルカーで真っすぐ下りずに、登ってきた方向とは反対側へ降りて行くと、古代ローマの遺跡が見えてくる。傾斜地を利用した劇場で、座席からは舞台とリヨンの街が一望できる。ちょうどロックバンドがリハをしているところだった。彼らの奏でる音の向こうに、リヨンの街がある。吹き渡る風が心地いい。古代遺跡でロックフェス。この組み合わせもフランスらしい。こういうライブ会場を持つリヨンっ子たちは幸せである。
 劇場の傾斜を降りて舞台脇から外に出ると、旧市街へ下る坂道に繋がっている。旧市街は坂の途中から始まる。この辺りの景観は美麗な街リヨンの中でも、最も美しいのではないかと思った。あちこちに坂や階段が点在し、斜面一帯に美観が形成される。坂のなかにあるカフェなどは、それだけで絵になった。
 旧市街をさらに入って行くと大きな広場に出る。サン・ジャン大聖堂が出現する。まさにリヨン歴史地区の中心にある大聖堂で、丘の上からは一際大きく目立ってはいたが、間近で見ると外観はのっぺりとしていて地味である。ヨーロッパの街の大聖堂といった威容もなければ、装飾の壮麗さもなかった。事実、丘の上のフルヴィエール大聖堂には多くの観光客が入るが、こちらに入る観光客は多くない。それでもこの大聖堂は、できれば中に入ってみたい。と言っても、シャルトルのステンドグラスや、ルーアンやストラスブールのような、ひと目で目を惹く凄味はない。しかししばらく佇んでいると、じわじわと魅了されて行くのが判る。
 祭壇に向かう礼拝堂内の壁は、光の反射によってところどころが赤紫色になっている。バラ窓もステンドグラスも、一つひとつ見て行くと目に愉しい。秀麗な天文時計もある。旧市街で少し歩き疲れた時、広場から大聖堂に入れば、思わず佇んでしまう空間がそこにはある。
 広場から歩いて、ソーヌ河の橋の袂に出た。景色が広くなる。河面はリヨンの街を映している。橋を渡るとすぐに、マロニエの樹木の並ぶ一画が見えてくる。スタート地点のベルクール広場に還っていた。
 
 
 リヨンは食べ物がおいしい。その辺の店にふらっと入っても、どこもそれなりにおいしい。パリだとそうはいかない。パリでうまいものにありつきたければ、それなりの店に行かなければならない。
 フランスからイタリアへ渡ると飯がうまくなると聞いたことがある。一流レストランでなく大衆食堂などの話である。スペインでも、何となく入った店がうまかったというのはよくある。どこの地方へ行っても、スペインの飯はうまい。
 フランスでおいしいのは、まずパン。ホテルでも空港でもだいたい間違いない。そしてチーズ。これもいろんな種類があっていける。
 しかし料理となると、フランスでおいしいものはたいていは手が込んでいて、手が込んでいるものはお金がかかる。この辺が素材で勝負できるイタリアやスペインとの大衆食堂における差で、よってそれらの国に近くなると、その差も少なくなる。
 フランスでは露店のハンバーガーで焼き加減を訊かれたことがあった。ミディアムかと訊ねるのでハンバーガーなのでサイズのことかと思ったら、焼き加減だった。こだわっているだけあって。それなりにうまい。一方で、こだわってないところではてんで出鱈目なのも、フランスの食事の(フランス人の、と言ってもいいかも知れない)特徴である。
 例えばパスタなどは、フランスで試せば悲劇的な出会いになることが多い。イタリアンレストランならいいが、街の普通のカフェやレストランで頼むと、口に入れた瞬間に仰天することになる。
 まず麺がアルデンテなんてものからは遠く離れている。完全に茹で過ぎで、フニャデンテである。その上ソースも、どう料理したらこんないい加減なものが出来るのかというものが出てくる。私はパスタは好きなのでよく頼むのだが、ミートソースですらそんな調子だった。
 特にアラビアータの出鱈目さ加減には、文字通り飛び上がるほどびっくりした。まずい以前に、あり得ないレベルで辛いのである。スプーンで粉チーズを十杯以上かけ、赤いソースをすべて真っ白にして、ようやく食えるかという代物である。パリでも他の町でもそうだったから、フランスの店でアラビアータを頼めば、飛び上がる羽目になるのは間違いなさそうである。
 話が徒らに長くなってしまったが、金を出さなければそれなりのものにありつけず、興味のないものにはいい加減なフランスの食にあって、リヨンは別格と言ってよかった。腸詰の肉料理も牛の心臓も、うまかった。サラダもスープもデザートも、みなうまかった。
 リヨンは宮廷文化発祥ではなく、庶民の中に料理が入り込んでいる。そんな歴史を、この町は刻んできた。旧市街であれ新市街であれ、何軒かを食べ歩いて行けば、この町とこの地域の食の豊潤さをしみじみと感じ入るに違いない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?