見出し画像

熱狂のユーロ2016後編④

 翌7日の準決勝第二戦は、フランスがドイツを下した。プロローグに書いた通り、この夜の熱狂ぶりは凄まじかった。砂塵やワインなどが舞うファンゾーンも、鉄柵をぶち壊す熱狂徒に紛れて出た後の帰路も、警笛でサッカーチャントを奏でて入線してきたメトロの駅でのことも、私は生涯忘れることはないだろう。
 そして私はこの熱狂に異邦人として参加すべく、決勝戦に臨んだ。7月10日決勝戦、ポルトガルーフランス。その日私は、顔にトリコロールを塗り、身体には巨大なトリコロールの旗を纏っていた。
 
 
 一ヶ月に及んだ熱狂の日々も、今日で終わりを迎える。2016年7月10日。その日はパリの方々を歩き、決勝の始まる一時間前には、シャン・ド・マルス公園の近くまで来ていた。しかし、予想されたことではあったが、入口ゲートに向かう長蛇の列は、なかなか進みそうになかった。開催国が決勝まで進んでいるのだから無理もない。
 そのうち、列の前の方から不穏な空気が漏れ伝わってきた。どうやら入場規制がかかり、入れないらしい。そこに留まっていても仕方がないので、私は来た道を引き返した。シャンゼリゼ通りの界隈まで歩けば、あぶれた人たちがいっぱいいるに違いない。そう考えたのである。
 歩いている途中、いろんな人に声を掛けられた。先ほど列に並んでいた時から、私は体がすっぽり覆われる大きなフランス国旗をマントにして羽織っていた。クラクションを鳴らしながら声援を浴びせて行く人もいた。見ると私ばかりでなく、トリコロールの扮装者はあちこちにいた。街中が決勝戦に向けて高揚していた。
 アルマ橋を渡ると、人だかりはさらに大きくなって行った。シャンゼリゼ通りとその周辺は車両規制が敷かれ、辺りのカフェは中も外も、人で溢れ返っていた。しばらくすると、応援の歓声が街に谺する。一ヶ月の大会の締め括りとして、開催国による決勝戦。舞台はパリ。群衆の熱気は最高潮に達していた。
 正直言って私は、決勝戦の内容はあまり憶えていない。シャンゼリゼ通りから一つ入った路地で観戦していた。
 フランスは前半から速い攻撃を仕掛けポルトガルゴールに迫る。しかし25分、パイエのタックルでロナウドが負傷交代。ポルトガルはチームの支柱にして大エースを早くも失った。
 これでフランスが攻勢を強めるかと思いきや、そう簡単に事は運ばない。ポルトガルはフォーメーションを変えてグリーズマンを自由にさせず、フランスの攻撃は停滞気味に。ポルトガルによる、相手にサッカーをさせない試合運びで、膠着状態となった。
 シャンゼリゼの観衆は、ピッチの状況に反映して、もどかしい感じだった。そんな時、妙に耳に遺るチャントが聞こえてきた。何と言っているか当時は判らなかったが、後にEテレ「旅するフランス語」でのトゥールーズのラグビーの応援で、
 Qui ne saute pas n'est pas Toulousain
(跳ばない人はトゥールーズの人じゃない)
 と、跳びながら応援するシーンがあった時、この時の光景が蘇ってきた。この時、その一群は、何度も何度も跳びはねながら、膠着状態のチームに沈黙する観衆を鼓舞し続けていた。最後のトゥールーザンは、フランセとでも言っていたのかも知れない。しかし試合はそのまま90分を終え、延長戦に突入する。
 90分間ほとんどシュートがなかったポルトガルは、延長に入ると、徐々にフランスの守備網を突破し始める。そして延長後半4分。待望の先制点を決めたのはポルトガルの方だった。
 試合終了までの10分間、フランスは攻めても点が入る感じがしなかった。シャンゼリゼの観衆もどこか敗色ムードになっていた。一方のポルトガルは、ベンチに下がったロナウドが、タッチライン際まで出てきて監督さながらにチームを鼓舞していた。出られなくなったエースの一挙手一投足は、確実にチームを動かしていた。
 試合はそのままポルトガルが勝った。ポルトガルにとっては、悲願のユーロ初優勝となった。
 
 
 決勝戦が終わって、私はシャンゼリゼ通りの、ど真ん中を歩いていた。トリコロールはそのまま肩から垂れ下がっている。通りは規制がかかっていたので車はなかった。
 もはや誰も声を掛ける者はなかった。本当は大勢のフランス人とともに闊歩するはずだった。熱狂の渦の中に、今いるはずだった。両側の歩道の方では、試合とは無関係に何人かが歩いている。つい先刻まで自国の決勝戦だったのが嘘のように、店も人も何もかも静まり返っていた。シャンゼリゼのど真ん中をこのようにして歩くことは、おそらく今後の人生でも、もうないだろう。
 ーユーロは終わった。終わってしまった。
 終わった。終わってしまった。私はそんな思いを噛み締めながら、三色旗をうすら寒く広げ、静まり返った夜のシャンゼリゼの真ん中を、一人ゆらゆらと歩いていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?