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マネのパリ

 2019年6月20日。念願の絵画に初めて出会った。その絵はそれまでに日本でお目にかかったことはなかった。門外不出の名画だからである。
 先に書いた通り、私は16年夏、サッカーのユーロ国際大会の期間に合わせて、一ヶ月をフランスで過ごした。一ヶ月かけて、それまでイメージしてきた多くのものに出会うことができた。その中には絵画、とりわけ近代絵画があった。
 という訳で私にとってのパリの目的地の第一はオルセー美術館で、それはこれからも変わらない。しかしこの16年の旅で、オルセーにおいてたった一つ、やり残したことがあった。門外不出とされるはずの、近代絵画の象徴とも言えるその絵は、その時オルセーにはなかったのである。
 19年初頭、インターネットで美術館の特別展情報を見ていると、夏のオルセー美術館で「黒人モデル・ジェリコーからマティスまで」と題した特別展が私の目に飛び込んできた。黒人モデルが描かれた近代絵画を一堂に会するというこの特別展の目玉は、マネの「オランピア」である。私はこれを見た瞬間に、この夏に何としてもパリへ行かなければならないと思った。
 本来「オランピア」はオルセー美術館所蔵なので、いつでもそこへ行けば会えるはずだが、前回のこともあり私は少し臆病になっていた。次行く時は確実に「オランピア」との対面を果たさなければならない。特別展の目玉ということなら、少なくともその期間中に行けば、100%確実に会うことができる。という訳で所蔵作品なのに、わざわざ特別展に目掛けてオルセー美術館を再訪したのである。
 会場は美術館の一階の左手前方にあった。入口を入るとすぐ、その絵は遠くからでも目を射ってきた。奥の部屋の窓枠の向こうに、年来夢みてきた絵がある。鼓動が早くなる。私の足は奥へ奥へと吸い寄せられて行った。朝の美術館の空いている空間の中、その絵はみるみるうちに大きくなって行った。
 おぉ、オランピア!マネ!
 絵を目の前にして、私は興奮していた。震える。鼻息が荒くなる。こみ上げるものさえある。この絵に出会うために、俺はパリにやって来たんだ!
 私は翌日も開館と同時にオルセーに出向き、真っ先にオランピアに向かった。ほとんど誰もいない中を、ただオランピアを前にするだけの時間を過ごした。
 それにしても、なぜここまで、私のなかでマネという画家が大きくなったのだろう。いつからだろう。私はそれまでに日本で催された美術展を振り返った。
 
 
 そもそも、いつ頃から美術館へ行くようになったのか。美術展の図録を買ったり、資料を保存したりするようになったのは10年頃からなので、それ以前は記憶に頼るしかない。多分最初は大がかりな、ルーブル展やオルセー展といった類のものを観ているうちに、何となく印象派が好きになり、そしてセザンヌに惹かれた。その頃はどの美術展に行っても、とにかくセザンヌだった。
 ただセザンヌの先駆者とも言えるマネに対しては、当初はそれほどでもなかった。なので10年の初夏に三菱一号館美術館で開催された「マネとモダン・パリ」展は、今思えばかなりの通好みの内容だったが、その時はまだその魅力に気づかないでいた。同時期に国立美術館で開催された「オルセー美術館展・ポスト印象派」の方が、当時の私には魅力があった。
 しかしこの「マネとモダン・パリ」展は、マネという画家に目を啓かせるきっかけになった。ナポレオン三世とオスマン知事による大改造まっただ中の新しいパリの街と、そのなかで描くマネを、縦横から掘り起こした面白い展覧会である。いま図録を読み返しても読み物としても楽しめる。オルセーからも、「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」や「エミール・ゾラ」など数点が来日した。
 さらに私にとって決定的となったのは、14年の夏に国立新美術館で開催された「オルセー美術館展ー描くことの自由ー」である。マネに始まりマネに終わると銘打たれたこの展覧会は、文字通りマネの部屋から始まり、19世紀近代画や印象派などの部屋を通り抜け、最後にマネの部屋で終わっていた。この流れに身を置くことで、この画家が近代絵画に果たした大きさというものが改めて判ぜられてくる。
 セーヌ河岸にあるパリの一等地の良家に生まれたマネは、家からすぐ近くのルーブル美術館に通い、トマ・クチュールに学び、スペインを旅してベラスケスやゴヤの視点を得た。良質な古典を巧みに吸収しながら、その中にある近代性に気づきを得た。
 技法と構成は古典を踏襲しながらも、物語や神話の世界でなく、目の前に繰り広げられる日常の光景から自ら描きたいものを思いきって描くそのスタイルは、当初は非難や嘲笑の的となった。
 ナポレオン三世の気まぐれで実現した1863年の落選者展での「草上の昼食」や、翌々年サロンでの「オランピア」は、この画家の特質を顕にした。ルネサンスから培われた遠近法を無視するような、明るく平板な二次元性。しかもそこに描かれるのは、我々の周りにいる、現代の呼吸をしている人間だった。セザンヌはじめ後の絵画のスタートは、マネその人である。

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