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ネイティブ日本人の日本語力(2)

ネイティブ日本人の日本語力(1)」の最後に、「日本の生産性の低さの要因は、日本語力の低さにある」との仮説を立てた。

公益財団法人日本生産性本部というところが「労働生産性の国際比較2019」というレポートを発表しているのだけど、それによると、日本の労働生産性(GDP/就業者数(または就業者数×労働時間))はOECD加盟36か国中、21位だそうだ。1970年は20位、1980年も20位、1990年に14位と少し順位をあげたものの、2000年には21位に転落し、2010年も21位をキープ。そして、2018年も21位となっている。要するに、日本の労働生産性はずっと低い状況が続いているわけだ。

もちろん、日本の生産性の低さの要因は様々あって、例えば、デジタルトランスフォーメーションの遅れとか、空気を読んだり、忖度したりといった気質、前例主義、メンバーシップ型の就労システムなんかもそうだと思うのだけど、その要因の一つに「日本語力の低さ」もあるというのが僕の見立てだ。

僕は行政計画の策定支援をする仕事をしていて、社内にもクライアント(市町村などの行政機関がメイン)にも比較的、高学歴な人が多い。大半が大学や大学院を卒業しているし、その上、難しい試験(資格試験とか昇任試験とか)を幾度となくパスしていたりする。行政機関は基本的に文書主義だから、行政職員さんも彼らをサポートする僕たちも、なにかにつけて文書(資料)を作成する必要があり、文書(資料)作成スキルは高くないといけないなのだけど、みんながみんな、日本語力が高いかと言えばそうでもない(と感じている)。

主語と述語がちぐはぐになっていたり、文脈に合っていない接続詞を使っていたり、主語や目的語が省略されすぎていたり、言葉遣いが曖昧だったり、間違っていたり、「てにをは」などの助詞の使い分けがおかしかったり。文章の巧拙以前に、文法的におかしい文章を散見することもしばしば(かく言う僕も文法の間違いを指摘されることもあるのだけど...)で、相手に誤解させないような文章を書くのは、ネイティブの日本人、それも高学歴で文書主義の業界に身を置いている人であっても、思いのほか難しいことなんだと思う。文書主義の業界においてもこのような状態なのだから、もしかすると日本全体として、日本語力が高いとは言えない人たちが一定数いるのではないだろうか。

では、なぜ日本語リテラシーが低いと、生産性が低くなるのか。それは、「コミュニケーションに時間がかかるから」に他ならない。日本語でコミュニケーションをとるのに、その日本語の使い方が間違っていたりすると、相手に誤読をさせてしまったり、最悪の場合は、何も伝わらないという事態を招いてしまう。どう読み取ったら良いのか分からない。何を伝えたいのかが分からない。そうなると、いちいち「これはどういう意味ですか?」と相手に確認する必要があり、多くの場合、文書(資料)を修正する必要がある。それが2度も3度も続くと目も当てられない。単なる誤字・脱字レベルならともかく、文法レベルの間違いや読解不能(どのように意味を理解していいか分からない、意味の取り方の選択肢が多い)な文章の修正は、手間も時間もかかるし、その上で文章のクオリティを求めるとなおさらだ。

文書(資料)を作成する仕事をしている人は、赤を入れたり、入れられた経験がある人が多いと思うのだけど、日本語リテラシーが高いと、校正にかかる時間は大幅に削減できる。文学作品やコピーライティングなど、表現力が求められるようなものを除いて、多くの場合、表現力よりもこちらの意図していることが相手に誤解されることなく伝えられることが重要だ。それがスムーズにできるだけで、互いに意図を確認しあう時間が削減され、生産性は向上する。そしてそれは文書(資料)においてだけではなく、会話においても同じで、言葉のキャッチボールの質が高まれば、議論や打ち合わせの質も自ずと向上し、結果として質の高い仕事につながると思うのだ。

ネイティブの日本人だからって、日本人と日本語に囲まれているからって、日本語のリテラシーが自然と高くなるわけではない。相手の意図するところが分からなかったり、自分の思いや考えが伝わらなかったり、そうしたコミュニケーションの機能不全に陥った経験は誰しもあるだろう。日本は先進国の中で労働生産性が低く、これを高めていくことが大きな課題となっている。ビジネスシーンでのコミュニケーションの機能不全は、言ってみれば無駄であり、社会的な損失とも言える。しかし、日本語の読み書き能力、つまりリテラシーを高めることで、このコミュニケーションの機能不全を避けることができ、その分、労働生産性を高めることができる。ネイティブの日本人だからこそ、日本語力の研鑽が欠かせない。

日本語力の向上には、新聞や本を読むということはもちろん大事だとは思う。語彙も増えるし、読解力も養える。でも、それだけではこちらの意図していることが相手に誤解されることなく伝わる文章が書けるようになるわけではない。作文は義務教育では先生から手取り足取り教わる機会があるものの、それ以降はなかなかそうした機会がないという人が大半だろう。高校でも大学でも、そして働きだしてからも、「ネイティブの日本人たるもの日本語の文章は書けて当たり前」という前提に立って、課題なり仕事なりが与えられるのだが、全くもって当たり前ではない。そうしたスキルは身に着けていてしかるべきだとは思うのだけど、身についていない人が、世の中には思いのほか多いというのが僕の実感だ。文章力に課題を感じている人は、本多勝一さんの『日本語の作文技術』(朝日新聞出版)のような本を読んで勉強したりもするだろうけど、そんな人はごく一部だろう。「ネイティブの日本人だから日本語力はあって当たり前」と考えるのか、それとも「ネイティブの日本人だからといって、日本語力があるとは限らない」と考え、自身の日本語力の研鑽に励むのか。その差が、人生という時間の中で、大きな成果の差となってあらわれるのではないだろうか。

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