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そのままでいいのに

引っ越しをした。
ついこの間まで住んでいた家は、ちょうど一年という短い期間だったけれど、激動の2023年を共に歩んでくれた相棒にも近い存在だった。退去の日は隅々まで写真を撮りながら、半泣きで思い出を振り返った。

最初の印象は「普通」。角部屋の二階で、キッチンと居間がはっきり扉で分かれていた。
窓が多く、居間には出窓もある。収納は少ないが、たっぷりと用意された広さに喜びを感じつつも、それ以外特筆するようなことのない無個性な部屋だった。しかし急ぎの引っ越しだったため、泣く泣くそこに決めたのだった。

友人の協力もあり、初日で暮らせるレベルの部屋が完成し、そのまま新居パーティーの運びとなる。
心底愉快だったが、部屋に対する満足感はなく、内心不安ではあった。
去年の年末は友人たちと北海道へ下道とフェリーで向かい年始まで過ごしたこともあり、家との正式な付き合いは2023年に入り少し経った時からとなる。

このなんの変哲もない、駅から少し遠いこの部屋とどう暮らしていくのだろうと思った矢先、悲しい出来事が度重なり、引っ越し早々生活は荒れた。2023年の4月までの、死に最も近い精神状態の僕を、部屋はただ黙って見ていた。身に余るほどの採光と、無愛想なユニットバスは、僕を死から静かに遠ざけてくれた。

春が来ると共に僕の精神状態も落ち着きを取り戻し、部屋に彩りが出てくる。
好きな日用品や、いつでもカレーが作れる潤沢な調味料たち、衝動買いしたぬいぐるみ。
なんの個性もない部屋は、僕の少々派手な趣味もすんなり受け入れてくれた。

その後も、心身の不調が出るたびに、部屋の天井と睨めっこし、壁に貼ってあるお気に入りのポスターたちが僕を囲む。
真夏に発熱して朦朧としているあの日々も、今ではいい思い出だ。

秋頃になると部屋との別れを告げられる。やっとこの部屋と距離感を掴めてきたというのに。
これまた急ぎの引っ越しだったため、1ヶ月ほどで新居を決め、ほどなく荷造りとなってしまった。

それからの日々は、箱を錬成し続ける毎日だった。
箱がひとつ増えるたび、別れを明確に実感し胸が痛んだ。長いようで短いようなこの1年の思い出が駆け巡る。

友人を招いて鍋をしたこと。好きな人と部屋を暗くして山盛りのポップコーンを頬張りながら映画を観たこと。
確定申告の時期に数人の友達と一緒に書類を作ったこと。一人で泣きながら芸人のラジオを聴き続けたこと。
部屋の掃除をするため適当な映画を流して一日中断捨離したこと。初めてカギをもらった日に、空っぽの部屋でタバコを吸ったこと。

いつのまにかこの部屋が自分自身の居場所になっていたこと。

引越し前日に、かつて入居時にも手伝いに来てくれた友人が荷造りを手伝いに駆けつけてくれた。
その友人は、「冬至に引っ越しなんて縁起がいいね。これから暖かくなっていくから、きっといい風が吹くよ」と背中を押してくれた。

当日。引っ越しは、1年かけて作り上げたとは思えないほどにあっさりと終了した。
その日の朝まであった僕の生活の痕跡は一つとしてなく、ただ蓄積されていたほこりが宙に舞っては落ちていくだけの部屋となってしまったことに、悲しみよりも驚きは勝った。

そのまま流れるように新居の荷解きが始まった。
まだ知り合いにすらなれていない新居は、年季の入っているビルなのもあってか、僕とその生活を案外すぐに受け入れてくれた。
慎ましいキッチンと、かつて畳だったであろうフローリング、文机にピッタリな低い窓。
意外なことにバス、トイレは別だったので、これからはお風呂に長く滞在する機会が増えそうだ。
…なんてことを考えている間に、数時間前まで半泣きだった僕は、すっかり新居を「家」として受け入れ、新居と共に過ごす最も適切な生活を考えているのだった。

前の部屋と今の部屋では収納の数や間取りが微かに異なる。
出窓もベランダもないこの部屋に、かつての荷物たちをねじ込めばねじ込むほど、前の部屋の輪郭を思い出させ、胸が苦しくなった。しかしそれと同時に、今の自分には不必要だったものが炙り出されるようで、ある種心地よい感覚も覚えた。

僕はこの数年間で、運悪く6回ほど引っ越しをしている。部屋の更新を経験したのは大学時代の部屋のみで、ほとんどの場合は不慮の事故や危機感、立ち退きといったあまりポジティブではない理由であり、今回もその仲間である。しかし今まで住んだどの部屋も、それぞれの個性と、それぞれの思い出があり、その時々の僕の生活、いや、人生を支え、励まし、彩ってくれた。
引っ越しの機運が来るたびに、「そのままでいいのに」と肩を落としていたが、心なしか越す度人生も大きく変化させてもらっている気がする。「そのままではだめだよ」と部屋に言われているようだった。

とはいえ、そろそろ長い付き合いのできる部屋と出会いたいなと思っている。その証拠に趣味の物件検索は今もなお続いている。30歳になるころか、はたまたもっともっと先か、案外この部屋なのか。それは神すら知らぬことかもしれない。

けれどきっと今の家も引っ越してしまうだろう、といじわるな勘が僕に囁く。
ならばせめて次の退去理由は、ポジティブなものであって欲しいなと思う。

2024年も、きっと思いもよらぬことがたくさん起きるんだろうな。
新しい部屋と、新しい生活が始まる。楽しくしていかなくちゃ。

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