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『Most Likely to Succeed』を観て

今、教育関係者の中で、密かに話題になっている『Most Likely to Succeed』を観にいきました。これは自主上映映画で、新たな教育を考える団体や企業が上映権を買い取って、全国各地で放映されています。多くの場合は、映画を観た後に、それぞれの考えた内容をシェアするワークショップなどを一緒に行います。

米国のカリフォルニア州にある High Tech Highでは、自分がやりたいことを課題として設定し、追究する、徹底したプロジェクト学習を行っています。映画は、 High Tech Highで学ぶ子どもたち、そこで働く教師、子どもを預ける保護者などにインタビューをしながら展開するドキュメンタリー。

High Tech Highには、数学や国語などの、いわゆる既存教科は存在しません。

では、授業はどう行われるのか?
それは、教師が教えたいことを教えるのです。ちなみに、教師は1年更新制なので、きちんと子どもたちの力が伸ばせていないという評価がなされると、解任されるそうです。(その評価がどう行われているのかは、あまり詳しく描かれていませんでした。)
そのため、生徒によって、演劇を作りあげたり、徹底して工作をしたりと、打ち込むことはバラバラ。
課題の中で、数学的知識が必要であれば学びますし、社会の知識が必要になれば調べるのです。

保護者たちは、既存の教科での学びではないことをただただ不安に感じます。本当に大学を突破できるだけの力がついているのか?、映画では教師に詰め寄るシーンも描かれていました。

私が思ったのは、もはやここまでくれば、学校という組織である必要はないのではないか?ということ。
立教大学の中原淳先生も先日取材でおっしゃっていたのですが、学生と社会人の区別はどんどんなくなっていく。High Tech Highが行っていることは、社会人が行っているビジネスのプロジェクトと同意義にはならないのでしょうか?

で、あればだ、学校という枠に収めて学ぶ必要は果たしてあるのだろうか、と思ってきてしまうのです。社会の中に、子どもたちを放り込んで最低限のリスクヘッジだけして、「自分たちで考えながらビジネスやアートをやってみなさい」と言ってみたらどうなのでしょう。

きっと大いに活躍する生徒も出てくるはずです。

でも、そこでふと、「あ、それではうまくいかない子もいるかもな」と立ち止まりました。
私がいう「うまくいかない子」というのは、いわゆる「何をやっていいかわからない子」です。
つまり、何をしていいかわからない子どもたちは、社会に放り出されても、課題を設定することができません。プロジェクトを創造できなければ、自由は苦痛になってしまう。

これからの学校とは……、
自分がしたいこと、自分が社会で何を課題と設定するかを、ゆるやかに決めるための機関なのではないでしょうか。
型にハマった教科を教え込む教育はなんとなく”チガウ”と、みんな感じはじめている。しかし、それでも学校は存在し続けています。
今、無用に存在し続けることがないように、役割を再定義する段階にきているのかもしれません。

ちなみに、映画鑑賞後のワークショップでは、グループになってそれぞれの決意を語り合いました。
そこで私は、
「自分を社会でどう生かすか、徹底的に考える」
と、発表しました。

社会のなかで課題設定をしていく必要があるのは、決して子どもだけではありません。我々大人とて、同様……いや、むしろ大人こそ必要なはずです。そんなわけで自分の目標設定として捉え直したのでした。
みなさんはどのように鑑賞しましたか?

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