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【3分ショートショート】冗談

「当直交代の時間です、マム」ぼくはドアを抜け、コントロールルームに入った。
 宇宙エレベーターの貨物クライマーは完全自動運転だが、責任の所在を明確にするためだけに二人の人間――キャプテンとコマンダーを乗せていた。人間の業務は、機器類の監視と定時連絡が主で、定常運転中は一人ずつ交代で当たることになっている。当直中は狭いコントロールルームに一人きりだが、異常がなければ退屈な仕事だったし、実際、異常になど、滅多に遭遇することはなかった。
「では引き継ぎをしましょう」キャプテンがシートから離れた。「とはいえ、伝達事項はなにもなし。ケーブル損傷予報もデブリ接近警報も出てない。穏やかなものよ」
「了解です」ぼくは入れ替わるようにシートに潜りこみ、ベルトで身体を固定した。「では当直を引き継ぎます」
「さて、新人君」キャプテンが脇からいった。「当機はそろそろデスゾーンに入るけれど、この意味、わかるわね」
「はい承知しています、マム」ぼくは計器類を確認しながら答えた。
 デスゾーンとは、クライマー乗務員の符丁で救助困難域のことだ。宇宙エレベーターのケーブルは、海上ターミナルから静止軌道ステーションまで三万六千キロもある。そして貨物クライマーの最高速度は時速二百キロ。到着までに一週間以上かかる所以だが、それは問題ではない。問題は、ケーブルの中央付近で深刻な怪我や病気になっても、人命救助の制限時間といわれる七十二時間以内での救助が困難なことだ。緊急時にはケーブルから離脱して大気圏に突入し、海に降りることもできるが、高度が上がるほどコリオリ力のために着水点がずれていき、救助船の到着が遅くなる。要するに、この領域でなにかあったら死を覚悟しろ、という意味の隠語だ。
「ということはつまり」耳元で、キャプテンがささやいた。「君はいま、地球圏において人類社会からもっとも隔絶したところで、私と二人きり。そして」耳に息がかかる。「どこからも助けはやって来ない」
 思わすビクッと身を引き、キャプテンを見た。シートの背後から抱きつくように腕を回し、微笑みかけている。
「私は君に、告白しなければならないことがあるのだけれど、なんだか、わかる?」
「や、やめてくださいよ」
「当てたら、ご褒美をやりましょう」
「……まさか、こ、恋の告白、ですか?」
「それもいいわね。でも残念ながらハズレ」
「……お、襲われる、とか?」
「ふうん。君は私に、襲って欲しいの?」
「いやいやいや、やめてくださいよ。性的虐待ですよ。いや、犯罪か」
 キャプテンが、うふふ、と笑った。
「本気にした?」
 ぼくは、ほっと息をついた。「悪ふざけが過ぎます、マム」
「新人はね、ここら辺りでおかしくなることが多いの。以前、戯れ事を本気にして熱を上げた莫迦がいてね、あれには参ったわよ」キャプテンは小さくため息をつくと、ところで、とぼくに向き直った。「お父様はお元気?」
 ぼくは驚いてキャプテンを見た。「父のこと、ご存じなんですか」
「昔、同僚だったからね。同じ姓だから、もしやと思って調べさせてもらったのよ」
「そうだったんですね。じつは、父は亡くなりました。数年前に、母に看取られて」
「それは、残念」
「ありがとうございます。私も、この姿を父に見せることができず、心残りです」
「うーん、そうじゃないんだな――そうね、ここはひとつ、莫迦な女の話をしましょう」
 その女には、子がいるはずだった。そう、生きていれば君と同じくらい……生きていれば、という表現は適切ではないか。この世に生を受けることを許されなかったのだから。女が愛していると疑わなかった碌でなしに、娘か息子かもわからないうちに堕ろされてしまったのだから。男は、妻と産まれたばかりの子を連れて、宇宙に姿を眩ました。裏切られた女は、その子だけが生きていることが許せなかった。だが女には、追いかける勇気も金もなかった。できることは、恨みを募らせ、復讐の機会を待つことだけだった。
「それがまさか、向こうから飛びこんでこようとは――君はお父様に、よく似ているわ」
 キャプテンは目を細め、口角を上げた。
「女はね、その子を殺して自分も死ぬつもりでいるの。ここなら邪魔も、入らないものね」
 なにか冷たいものが、ぼくの背を流れた。
 キャプテンが、ふふっ、と笑い、手をひらひらと振った。
「ただの冗談よ。面白かった?」
 そして「じゃ、おやすみ」とドアの奥へと消えていった、凍りのような笑顔を残して。

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