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私にとっての精神科訪問看護の意義

私はグループホームに入ってから約4年半、精神科訪問看護のお世話になっている。
今の訪問看護ステーション(以下ST)で3つめだ。
1つめは突如訪看さん側の理由で来れなくなり契約終了。
2つめはそれに伴い近くのSTを探してお願いした。ただ、途中で考えが合わなくなり辛くなって、歩み寄りの努力もしたけれど功を奏さず、契約終了。
そして今のSTに移って約1か月というところだ。

精神科訪問看護が「自立支援」であり、利用者ができることを促していこう(あえてざっくり)というのはわかる。
ただ…医療も福祉もなのだけど、ケアを受けたいのにケアの文脈で逆につらくなることが続いているので、理由をそれぞれの場面で書いてみようと思う。
第一回は訪問看護編。では理由、行ってみよう!

① 精神疾患は適切な治療をしたらフルリカバリーできる人ばかりなんてことはない

 精神疾患に関して「薬を飲みながら社会生活を普通に送ることができるように戻れる人が大半です」いう文言をよく見る。多くの人にとっては希望になる文言かもしれない。けど「大半は」なのである。すべき治療をしても、どうしても残存症状があって今まで通りにはいかない人、なんならどんどん悪化していく人というのもいるのだ。
 それが悪性腫瘍なら誰も患者を責めないはずなのに、精神疾患となった瞬間患者の自助努力不足に転嫁されるのだ。えっと…できる努力があるなら教えていただけたらしますけど…と言うと生活リズムとかふわふわなことになって返ってくる。
 さらに「訪問看護は卒業を目指すもの」とことあるごとに言われた。言いたいことはわかる。けど、訪問看護があっての生活ですら安定していない人にそれは酷な発言でもある。このケアもまた失うのかって。けど、いやーそれはみたいなことをいうと依存だ何だと言われるので黙っている。
 私は散々入院してきてつらい思いをしてきた。二度としたくない。だから一番大事なのは「再入院しないこと。ひいては安定・安心した生活を送ること」なのである。だからそのために、ケアを受けながら地域生活を継続すること、それはそんなに悪いようには私には思えないのだ。

 精神疾患ってのはスペクトラムが広くて、治療を受けながら就労をしている人から私のように入浴、食事、歩行、そういったセルフケアに苦労している人までいる。だからゴール設定を精神疾患って言うひとくくりで一緒にせず、その人がどんなことに困ってて、どうありたいのかって個別に考えアセスメントするという基本に立ち返ってほしいなと切に願います。(が、偉そうと思われたくないのでいわない)

② 社会復帰を目標とすることが高すぎる層がいることをわかってほしい

 私は基本的に生きることへの希望の類がない。なぜ入院になるような行動をしないか・入院にならないような行動に努めているかといえば悲しいモチベーションだけれど「二度と隔離拘束の地獄を味わいたくない」「この国は人の生活は保障してくれないけど命だけは守ってくる」という負の感情からなのだ。
 だけど、2つめのSTの訪看さんたちは「3-5年後の未来の自立を見据えて~~」ということを言うのだ。そして私がそれに「未来を見据えたらつらくなる。そもそも3か月後の家の保証もなく、今晩のご飯にも困る人がそんなこと考えられない」と言ったら「うちらは仕事として専門家として関わってるから言わなければいけないことははっきり言う」といった返答で、あ、だめだこりゃと思った。
 生きるスキルを身に着ける精神科訪問看護は命を救うことをしてきた領域の看護師にも受け入れられやすいのかもしれないが、生きる希望を取り戻す・これから身に着ける、または仕方ないから生きていくことを許容することに付き合うというのは「生きたいけど生きられない」人を看てきた看護師には発想の転換が難しいのかもしれないと思った。

③ 私の専門家は私。そして主人公であり責任者であるのも私
:人生にはストーリーがあるのだからまずは聴いてほしい

 二番目の訪看さんは最初はめっちゃよかった。けどある日精神科歴が長いというスーパーバイザーが入って、他の人たちも自分たちを「専門家」と呼び始めたあたりからすべてがおかしくなった。
WRAP、SST…そういったものはもちろん一通り経験して効果がなかったし、効果がなかった理由も説明できる。効果がないどころかやることで悪化したものもある。
 薬なら効果があれば副作用があるというのは当たり前に思われるけど、精神療法的なものにも適応の有無や侵襲性や副作用は当然ある。
けど、向こうの提案を断ると「治療意欲がない」だのなんだのなる。

 ただ、決めて実行したことの責任は自分でとるしかないのだ。
だって、それで代わりに調子崩しても「●●さんが言ったことに従ったので代わりに保護室に入ってきてください」とはならないでしょ。
だから自分の心身に悪影響があると思ったらやらない。
最終的に自分の心身を守れるのは自分しかいない。

 専門職からみて一見不合理に見える判断でも私の言動には全て理由があるのできちんと聴いてほしいし、尊重してほしい。もしそれでも強く押すなら結果までフォローしてほしいと思うのである。
(時々自己決定と自己責任論が履き違えられてるなって感じる時あるんだよねボソッ)

 私の人生のマップを広げるのは私。目的地決定も船長も私。ただ、一緒に航海をする仲間として荒波を一人では乗りこなせないから何卒何卒、ってイメージ。

そんなこんなで専門職 VS (本人としての経験や意見が沢山あるけど所詮立場の弱い)利用者の私ということで沢山傷ついてきたわけである。

まとめ

 人生色々ありすぎた。その中で「人にわかってほしい」という気持ちはもうない(偶然わかってもらえた時は嬉しいけど求めたらつらくなるだけ)。でもさすがに理不尽に踏みにじられたり否定されるのはイラっとくる。それで行動を強制されたり管理されたらパニックになる。だから人はとても怖い。
 それでも、嫌なことがあった人との関係はすぐきれても、一貫していわゆる援助希求を出し続けている。それだけ人を求めているのだ。支援という文脈に沢山傷つけられながらも、プライベートな関係だけでなく支援という文脈にこだわるのにもまあまあ意味がある(それはいつか)
 だから徐々に、良い支援とまではいかなくても脅かされない、でもそこにいてくれる、変えようとされない、安心できる、そんな味方を周りに増やしていきたいと思う。


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