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のきさき書店の明日はどっちだ?!

 この6月3日、地元で古本屋を始めた。名前は「のきさき書店」。文字通り、軒先にテントを立てて営業している小さな古本屋だ。本が雨に濡れると困るので、晴れの日にしか営業しない。だから、「ハレの日」という名前にしようかと考えていたが、ある日名前を考えていると、突然、この言葉が降って来た。(そうか! 軒先だからのきさき書店でいいじゃん)これはもや天啓である。そう思った瞬間、「のきさき書店」は誕生した。

 「のきさき書店」は亡き叔母(父の妹)の持ち家だった。叔母は生前から「私が死んだらこの家は〇〇ちゃんにやるで(あげるから)」と言っており、私もそれは当然のこととして受け止めていた。それは亡き父(叔母の兄)の言葉でもあったからである。

 叔母は独身だったし、甥と姪は3人。そのうち甥はすでに亡く、もう一人の姪(甥の妹 私の従姉)は埼玉にいて岐阜には戻って来ない。コロナ以降、連絡がつかなくなってしまった。叔母の姉妹はすでに全員亡くなっている。叔母の死後、相続でもめないように、生前、叔母が元気なうちに(判断能力があるうちに)きちんと遺言状を書いてもらっていた。

 叔母の姉妹は子孫運が悪かった。子どもがいたのは一人だけで、ほかは独身か子どもに恵まれなかった。私は叔母と長い間一緒に暮らしていた。私が結婚するときに、叔母は妹(どっちも私の叔母)と共に一緒に暮らすつもりで家を購入して実家を出たのだったが、この二人は強すぎる自我がぶつかり合ってけんかとなり、結局妹は横浜に戻り、叔母は死ぬまで一人、大垣の家で暮らしていた。このことは書き出すとたいへん長くなるので、いつか書く機会があったらまた書こう。ちなみにその時のタイトルは「四婆(よんばば)」である。

 さて、叔母が亡くなってかれこれ5年になるが、手続きして家を正式に私のものとしたのは昨年だった。叔母が生きていたころからすでに天井にはシミができ、あちこちガタのきていた家ではあったが、亡くなってだれも住まなくなり、風を通す者がいなくなるとさらに家は傷みだした。天井がめくれ落ち、シミはさらに広がって、雨漏りが床にまで到達して床板をひどくもろいものにしていた。

 家人から「処分してはどうか」という声もあがったが、叔母が長年暮らしていた家でもあり、手放すのは簡単だが、今時、不動産などなかなか手に入るものではない。唯一のメリットは電車の駅に近い(徒歩約3分)ということだ。なんとか活用できないかと考え、そのための助成金なども当たってはみたが、はかばかしい結果は得られなかった。

 叔母の家はもともとどこかのドクターの持ち家だったらしく、こじんまりした平屋で部屋は四つ。そして小さな庭がある。私はこの庭がとても好きだ。自宅の庭は広いが寺の庭なので、自由にできない。おまけに私が植えた植物も、その方面にはまったく疎い家人が草と間違えて引っこ抜いてしまう。長年生き抜いて生きた梅の木もばっさり伐られてしまったし、私がひそかに子どもの誕生を記念して植えたハナミズキも邪魔だといわれ、植え替えたがダメになってしまった。だからいつかはこの小さな庭を自分だけのお花畑にしたいと思っている。そんなこともあって、なかなか処分に踏み切れないのだ。

 古本屋は空き家の活用のための選択肢の一つとして考えてはいた。学生時代は地元の街の古本屋に入り浸り、行かなければいけない講習などもさぼり、親には言ってきたような顔をしていた。聴講よりも古本屋のなんともいえない雰囲気に浸っていた方が、よっぽどおもしろかった。

 ただいつか古本屋をいつかやりたいという願望はあったものの、踏み切れなかった。どう考えても儲かるとは思えなかったからだ。しかし、ふと思い立って、街中で古本市をすることに決めた。4人が参加してくれることになって、昨年秋から開催している。ところがまったく宣伝らしいことをしなかったため、人がこない。そうこうするうちに家庭の事情もあって今年は年に2回の開催とした。回数を限った方がより1回に注力できるので、結果的にその方がよかった。人を巻き込めば巻き込んだ責任をとらなければならない。主催者とはそういうものだ。

 書店でのバイト経験も本屋という業界を知るうえで役に立っている。わずか2年半ほどのバイト君だったが、本のそばに居られて幸せだった。本を注文しても書店の思い通りに配本されるとは限らないことを知ったのもこの時だった。書店には多くの場合、出版社から直で本が送られてくることはない。必ず取次店とよばれるところを通して配本される。これは便利な制度ではあるのだけれど、地方の小規模書店にとっては不都合なこともある。取次店では大型書店を優先して配本するため、客注しても本が書店に届くまでに時間がかかる。本を1冊でも多く売るには、売り上げの高い店に配本した方が有利だからだ。

 本が自分の書店には来ないので、ほかの書店で購入して店頭にならべたという涙が出そうな苦労話も聞いたことがある。

 その点、ネットでは自分でポチすれば早い時には翌日届く。とても便利だ。そんなところも街の本屋離れに拍車をかけているような気がするのだ。

 だけども私は町から本屋が消えてほしくない。一軒も本屋のない町になってほしくない。本屋には本が醸し出す独特の文化があり、その香りに惹かれて集まって来る人種は確かにいる。

 さらにいうなら、本を作るのにどれだけ多くの人が関わり、どれだけ多くの年月が関わっているのかということも知ってほしい。

  以前、和樂webで、日本で初めて五十音引きの辞典をつくった伊勢国の谷川士清(たにがわ ことすが)という人物の記事を書いた。この人は国学者で本居宣長などとも親交があった。もっとも功績としては国学の研究よりも「和訓栞(わくんのしおり)」と呼ばれる五十音引き辞典を作成したことの方が大きい。士清は晩年、徳川光圀の大日本史をけちょんけちょんに批判したため、「他参留(たさんどめ)」(津藩領国からの出国禁止)と呼ばれる厳しい処分を受け、その学統は根絶やしにされてしまった。しかし、彼のつくった和訓栞は生前も含め、全93巻は子孫たちの手によってすべて刊行された。この間、約110年! しかもそのために医者で裕福だった谷川家は資産のほとんどを使い果たしてしまったのである。和訓栞は幕末、シーボルトによって国外に持ち出され、ヨーロッパで日本語研究の有用性が認められた。

 今だったらあり得ないことだろう。本を出すために家の財産使い果たすなんて考えられない。バッカじゃないの?!という声が聞こえてきそうだ。たしかにそうかもしれない。もちろんこれは特別な例である。しかし、かつての日本には本の発刊に命運をかけた人間もいたということだ。お金のためではない。先祖以来の矜持を重んじたのだ。

 webのスピードはすごいし、拡散状況は紙とは比べ物にならない。しかし、本の世界にはロングセラーというものがある。爆売れはしないが長い年月、じわじわと読者層に浸透し、売れていく。そういうものがあってもいいと思う。

 いまはまだ産声をあげたばかりの「のきさき書店」。やりたいことは山ほどあるが、簡単にはいかなくて、これからも当分手探り状態が続くだろう。本のためにものきさきから家の中へ。

 ああ、「のきさき書店」。明日はどっちだ?!


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