見出し画像

真の学問への態度

哲学は遍(あまね)く世界を探求する学問である。しかし過去の哲学者、いや現在の哲学者も、その遍性を我々日常の生活には適用せず(もちろんした学者もいただろうが)、存在とか意味とか、そちらの方に興味を向けるばかりで、それを日常に繋げよう、我々の「人生」「生活」につなげようとは思っていないようだ。

学問を、純粋な知的欲求によって探求せられるものであると言う主張もあるが、私は学問への態度として、それだけでは決していけないと思っている。学問は、遍く人々のために行われるべきものである。純粋な知的欲求での学問、その姿としての学問は動機が利己的なので、ただの「趣味」にしか見えない。それに対して、人々のために、利他的な動機で学問を行なっている方は、遊びの範疇を越え、まさに「仕事」として学問を探求しているように見える。どちらが理想的かは明確だろう。我々を救ってくれる学者はどちらだろうか。

我々は生活をしているのである。その「生活」に根差した学問こそが、我々を直接救ってくれる学問であることは確かだろう。

学問は哲学として創始された。そこから科に分かれて、学問は科学となった。今や哲学という名称は違った意味を持って、人文「科学」として存在している。

哲学の役割はまさに具体的なことを研究するのではなく、普遍的なことを研究することである。そしてそれがすべての学の基礎となるのである。数学なしに物理学が成り立たないように、哲学なしに数学は成り立たない。具体例として、無限の概念など、どうであろうか。

そしてその全ての学の基礎たる哲学の探究対象は、現在われわれの生活に直接根差したものではなくなっている。心の哲学とか、科学哲学とか、存在論、形而上学。もちろん、それ自体非常に素晴らしいものであることには相違ない。

しかしそれらは、本当に哲学としての条件たる普遍学だろうか?もちろん普遍的であることは確かである。しかし、まず哲学が分野に分かれている時点で、そのどこが完全に普遍的であるというのか。フッサールは、現象学として、厳密学の構想を見出した。それをなぜ哲学の一派としか考えられないのか。そのまさに普遍的な構想を、なぜ哲学の「一分野」としてしまうのか。普遍的な探求に分野があって良いのだろうか。

さらには、その分野のうちになぜ「日常生活の哲学」が主要に含まれていないのか。我々のまさに生きるこの瞬間を、なぜ具体的な対象に絞って、ただそれだけで考察して終わりとするのか。我々のこの瞬間に還元せずして、どこが普遍学なのだろう。私は哲学、乃至現代に即せば科学、否、学問を、普遍学として、「日常学的還元」したものとして定義することを望む。なぜ学問に視野を広げたのかといえば、全ての学の基礎的態度として、日常学的還元が行われるべきだからである。

ただの知的欲求という純粋な利己心に基づいた学は、日常学的還元的に、学の態度として誤りである。なぜなら、その研究者の日常の一環として、学が存在しているからである。日常の部分集合として学を位置付けている。それではダメなのである。日常と学を完全に一致させなければならないのである。そのためには、まさに遍性が必要なのであり、それは単なる利己心ではなく、「全ての」人類乃至存在に対する利他心によってのみ行われうる。

利他心のない者にとっての学は、遍性を基板に置いた学とはなり得ない。常にそれは具体的で、具体的であること自体は良いのだが、そこで終わってしまうのである。日常という普遍に戻らないのである。世界は汝の知的欲求だけで構成されているわけではないのだ。

日常という普遍。学知をそれに還らせようとせぬ態度を私は批判する。具体的な考察にとどまっていたり、ましてや日常という概念さえ出てこない。

日常学的還元、遍性還元された態度において、学問を研究し、それが我々の生活そのものに役立つことを願ってやまない。もちろん、学問が楽しいということも役立ちである。しかしそれを、単なる楽しいなで終わりにせず、日常に還元して思考していただきたいのである。我々が生きているのは学問ではなく、日常なのである。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?