言葉を使う者。価値観に使われる者。

断定口調で書いてはいますが、あくまでも仮説です。皆さんが世の中を見つめる時の心の窓の一つになれたら幸い。
以下、本編。

西洋人は法的に人工的に作られた概念を人権と呼び、日本人をはじめとする東洋人は、個々人に当たり前に存在している背景のことを人権と呼んでいる。
日本人にとって、人権に相当する概念は言葉にするまでもない当たり前のものだったから、殊更に人権を主張する必要なんて無かった。そこに言語化された「人権」なるものが入ってきた時、これに最も近い概念を日本人はその指示内容として採用した。一言にまとめるなら、「どんな誰のいかなる考え方にも行動にも、背景となる事情がある筈なのだから、これを考慮することは当たり前である」という概念だ。なので、わざわざ人権という言葉を発明しなきゃ概念が付いてこなかった西洋人の言う「人権」と、日本人がもともとあった発想に対する「名前」として採用した人権とでは、指しているものが違うのは当たり前。
日本人が人権という「名前」を輸入したときに起こった悲劇は、これを発明した西洋人の発想までもが、言葉に乗っかってくる形で輸入されてしまったこと。つまり、「人権とは当たり前のものではなく、明文化したり法整備したりしないとあり得ないもの」という価値観である。これがやってきたせいで、日本人にとっては単に「名前」だったものが、西洋人が考える通りの「存在しないものの輪郭を描くもの」としての人権へと、次第にすり替わって行ったであろうことは想像に難くない。要するに、もともとあった「どんな人物のどんな考え方や行動にも、背景となる事情があるのだから、それが考慮されるのは当たり前」という意識が破壊されて無くなって行ってしまったということだ。言い換えれば、自分や他人の役割やその価値を、結果や今の状態や状況でしか判定できない人が増えたという意味でもある。自分の命を粗末にしたり、平気で他人の命を奪ったり、他人の尊厳を踏み躙ったりできる人が増えたのは、こうして起きた文化破壊あるいは崩壊の結果だろう。個々人の背景事情、いわゆる「人権」を見失った民族が自分自身や共同体の成員を大切に扱えるとは到底思えない。「職務遂行に敵う能力のレベル」というほんの一側面だけを見て、人を無能だの有能だのと断ずる発想が簡単に浸透してしまった背景にも、きっと同じものがあるのだろう。
この結末が意図的なものなのか、そうではないのかはわからないが、少なくとも、現象としては確実にこういうことが起きている。丁度、性的マイノリティに対してLGBTQなどという「名前」を付けて、殊更に彼らの特殊性を強調して浮き彫りにし、共同体に亀裂を走らせてバラバラに引き裂こうと画策した者たちがやってのけたのと同じことが起きているわけである。因みに、その最たるものは「多様性」という言葉である。この言葉の背後には、「人々はそれぞれ、決して調和し得ない差異を持っているから、この差異を無視して互いに干渉せずに生きるべきである」という価値観が隠れている。「調和し得ない差異」を前提にしているから、この言葉が浸透すればする程、共同体としての人類は崩壊する。権力層の者達は、人類を滅亡に導くための仕掛けが「多様性」であると説明しているが、全くその通りだと思う。
もちろん、概念に名前が付いていれば、それを正確に考えることができるので、問題は名前そのものではない。名前にはそれを使っている集団の価値観、言わば「思い」が乗っており、それが問題を引き起こす場合があるということだ。
言葉が持つ力というのは、こういうことを指すのかもしれない。言葉には、その言葉を使っている集団が信じている価値観が乗っかっている。ある言葉を別の集団や共同体が採用すると、その名前が必要とされた背景事情まで一緒に輸入することになる。例外は無い。何の必要性も無く生まれる言葉など存在しないから。
我々が言葉を「使う」ときには、辞書的な意味を知っているだけでは片手落ちで、その言葉が生まれた背景事情まで見通していないと、逆に言葉に「使われる」ことになる。何に使われるかと言えば、知伝子(ミーム)と呼ばれるものがそうであるように、その言葉が必要とされた背景事情である「価値観そのもの」が、あたかも生存と繁栄を目的とした一個の生命体であるかののように振る舞い、出来るだけ多くの人々の脳内を自分(その価値観)で占領しようとして、他の価値観と争うときの兵隊として使われるのである。
人権やLGBTQを声高に推進しようとする人々の一部がまさにこれで、彼らは自分が言葉に「使われている」ことに気付いていない。言うまでもなく、世界中の共同体への破壊工作をミッションとして負い、言葉の力を「使う」者として推進している人々が中心ではあるが。彼らは言葉の使い手としてはかなりレベルが高いと言える。なので、言葉に使われているのは、あくまでも「一部」である。ただし、少ないという意味では決してない。

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