見出し画像

手塚治虫から見る石ノ森章太郎(2008)

手塚治虫から見る石ノ森章太郎
Saven Satow
Jan. 26, 2008

「レオナルド・ダ・ヴィンチになりたかった」。
石ノ森章太郎

 2008年1月24日、故石ノ森章太郎の全集が1人の著者による最多のマンガ出版記録としてギネス認定されていたことを各種報道機関が伝えます。認定されたのは、角川書店より2006年2月に出版が始まった『石ノ森章太郎萬画大全集』です。これは全500冊で770作品、総ページ数は約12万8000という『大菩薩峠』の中里介山もびっくりする膨大な全集です。この11月に完結する予定で、現在までに約330冊が刊行されています。

 タイトルが「萬画」となっているのは、作者がマンガにおける表現の多様性を表すために、提唱していた名称だからです。

 ギネスの認定証は石ノ森を「マンガの王様として知られる」と記しています。これは手塚治虫を「マンガの神様」と呼ぶことへの呼応と一般的には考えられています。戦後マンガを生み出した手塚治虫が「神様」なら、それを発展させた石ノ森章太郎は「王様」だというわけです。

 けれども、これらの名称には、実は、それ以上の意味があるのです。

 1989年、手塚治虫と石ノ森章太郎が対談「現代マンガに試練の嵐を!」を発表しています。これは河出書房新社より刊行された『超漫画進化論』に所収され、2007年に出版された『ぜんぶ手塚治虫』(朝日文庫)に採録されています。この対談の内容は極めて示唆に富み、マンガを考える際に欠くべからざるテキストです。

 手塚や石ノ森の発言は、非常に本質的で、傾聴に値します。挑発的にとんがったことを言ったり、一見気のきいたことに見えて実は底の浅いことを口にしたりする今どきの対談とは雲泥の差があります。

 この対談には戦前の漫画界の状況やなぜ若いマンガ家が核戦争後の世界を好むのかといったことへの言及も見られます。

 今日常識化しているマンガ家のリクルート・システムは、戦後に確立された制度です。マンガを描くのが好きな若者がどこかの雑誌に投稿して認められ、デビューするというのが現在ですが、戦前は違います。

 美術学校出の画家の卵が有名漫画家のところに弟子入りをして、修業修業を積み、40歳すぎにデビューするというのが常識です。マンガ家は若者の職業ではありません。これはアシスタントから独立するというのとは異なっています。戦前はプロダクション・システムではありません。言ってみれば、雑巾掛けから始まる徒弟制度です。

 手塚治虫は、戦後マンガをシステムの点でも体現しています。彼は美術の専門教育を受けておらず、弟子入りもしていません。まさに異例尽くしです。そのため、戦前、登場するものはどのコマであっても全身を描かなければならないという暗黙のルールがあったのですが、それに従いません。クローズ・アップを多用しています。

 手塚治虫は戦前の漫画家からはずいぶんと叩かれています。ちなみに、彼を最も攻撃した一人が『サザエさん』の長谷川町子です。事実、『サザエさん』を見ると、どのコマでも登場人物はほぼ全身が描かれています。

 マンガ家が核戦争後の世界を舞台にする理由は、手塚や石ノ森によると、楽だからです。未来を描くということは世界を構築する構想力がなければなりません。政治・経済・社会・文化などありとあらゆるものを構想する必要があります。体系的・総合的な知識・思考が不可欠です。

 ところが、核戦争後はすべてが破壊された状態と設定できますから、一切考えなくていいのです。しかし、描写される世界の雰囲気たるや戦国時代か幕末の焼き直しで、建築はアール・デコかアール・ヌーボーという有様です。未来と言いながら、古めかしいのです。構想力の乏しさを絵で補っているにすぎないと両者は厳しく批判しています。その意味で、『マッド・マックス2』を越えるマンガは登場していないと指摘します。

 対談にはこうしたマンガ全般にかかわる興味深い言及だけではありません。手塚治虫と石ノ森章太郎のマンガ家としての資質の差異が明瞭となっていて、ハッとさせられます。

 それはマンガ批評に対する両者の態度の違いです。手塚治虫は全否定ですが、石ノ森所太郎は好意的です。手塚にとって、マンガ批評はやる気をなくさせるだけであって、害毒以外の何物でもないものにすぎず、ヨイショだったらあってもいいと散々です。他方、石ノ森は多様な眼が入ってこそマンガは発展できるとその意義を認めています。

 なるほど、手塚治虫が「マンガの王様」だったら、その王国はヨシフ・スターリンも真っ青の恐怖に満ちた独裁体制になっていたことでしょう。やはり彼には「マンガの神様」の方がふさわしいのです。

 中国共産党を例にするなら、手塚が毛沢東に譬えられるとすれば、石ノ森は鄧小平です。手塚は革命家になれても、政治家には転身できないでしょう。

 手塚は、『漫画少年』に投稿してきた小野寺章太郎という高校生の原稿を見て、その才能に驚き、『鉄腕アトム』の「電光人間の巻」を手伝ってみないかと申し出ています。その宮城県から上京した少年は下書きされた原稿を受けとり、しばらくすると手塚の元に送ってきます。

 手塚としては、軽く背景でも描いてくれていればいいと思っていたようですが、きれいに仕上げてあったのです。特に陰影が抜群です。この少年が後の石ノ森章太郎です。まさに王権神授されたマンガ家だと言わねばなりません。

 手塚の一元主義と石ノ森の多元主義は、彼らの生み出すヒーローたちにも投影されています。前者において、鉄腕アトムやジャングル大帝のレオ、リボンの騎士のサファイア、トリトン、ブラック・ジャックなどのように主人公が一人です。一方、後者では、本質的に、サイボーグ009、仮面ライダー、キカイダー兄弟、ゴレンジャーといった具合にチームです。

 言うまでもなく、いずれにも例外はあります。また、一見したところ孤高に見えても、実質的にチームという作品もあります。手塚治虫のヒーローはアフリカ系アメリカ人、石ノ森章太郎ではそれがゲイのアナロジーで語ることができるでしょう。そのことによって、本質を見誤ってしまうのです。

 手塚マンガがアニメ化されることが多く、他方、石ノ森作品は実写化される傾向があります。この理由は、手塚のヒーローが人間の顔をしているのに対し、石ノ森の場合はマスク的で無表情だからです。人間の顔は、記号化されたマンガの絵と比べて、曖昧さがありますから、マンガの実写化の際にネックとなります。

 石ノ森章太郎のヒーロー物は苦悩や暗さがあり、1960年代以降のアメコミ的です。と言うよりも、日本でアメコミのようなマンガのジャンルを生み出しています。彼のヒーロー物はアメコミ以上にアメコミ的で、そのままアメコミに移植できます。アメコミ以外のジャンルも描けたのですから、石ノ森章太郎はスタン・リーを上回る才能と言って過言ではありません。

 また、石ノ森章太郎はヒーロー物を実写を前提に考案しています。精神性が強く、暗さがあるため、アニメに向きません。アニメの絵は記号的ですから、実写と違い、曖昧さが消えてしまいます。役者の演技以前に、実際の人間の顔は何かを表わす記号としてつくられているわけではないので、どうしても多義的になってしまいます。でも、それによって精神性を表象できるのです。

 アニメにすると、人形浄瑠璃がそうであるように、作品のストーリー構成が前面に出てきます。手塚治虫と比べて、ストーリー・テラーとしては石ノ森章太郎は若干弱いですから、テーマ性がいくら深くても、作品が薄くなってしまいます。石ノ森作品をアニメ化するという試みは映像のリテラシーをまったく理解していないだけにすぎないのです。

 石ノ森章太郎が実写のヒーロー物に生涯携わり続けた点を見逃してはなりません。マンガ家は、概して、洗練した作品に向かい、読者の窓口を狭くしていく傾向があるため、子供たちが置いていかれてしまうのですが、彼はそれを忘れません。加えて、アニメの方が作者の絵のイメージに近いので、実写を避けます。

 しかも、『美少女仮面ポワトリン』を世に出したのは、50歳をすぎてからです。これは驚くべきことです。孫がいてもおかしくない年齢のマンガ家が子供に喝采をもって受け入れられるヒロイン物を考案しているからです。アメコミでは、ワンダー・ウーマンやウィッチ・ブレードなど男に媚びないヒロインいるのですが、日本ではほとんどありません。石ノ森の美少女ヒロイン・シリーズは、おそらく、初の実写のヒロイン物です。このような作品は女性からは生まれませんが、男性にとっても難しいのです。事実、彼の死以降、こうした実写のヒロインは登場していません。

 最近、ジャパニーズ・クールとしてアニメが過剰に評価されています。しかし、石ノ森の実写のヒーロー物の遺産が巨大です。アニメは経費削減のために、海外委託もされています。第一、出演者とリハや撮影の時間を打ち合わせする必要もないのです。でも、実写はそうはいきません。けれども、出演者やスタッフを含め、そこで培われたものは引き継いでいけるのです。

 逆に、手塚治虫の作品はアニメでその魅力を最大限に発揮できます。実写には向かないのです。ストーリーの手塚、テーマの石ノ森と言っていいでしょう。

 作品によっては、手塚マンガにもヒーローがチームであることもありますし、石ノ森において、主人公が一人ということもあります。しかし、チーム・ワークの描写という点では手塚は石ノ森に及びません。

 この観点から見ると、両者は非常に対照的です。手塚治虫と同世代でマンガ家として残ったのはいません。一方、石ノ森章太郎の場合では、「トキワ荘世代」と呼んでいいほどで、多くのマンガ家が現在でも活躍しています。面倒見がよく、赤塚不二夫が居候していたのは有名な話です。

 また、修業時代に目を転じても、事情は同じです。手塚は母親など数少ない理解者から励まされながら、孤独にマンガを描き続けています。彼はデビューしてからも、少数の読者が喜んでくれればいいと好きなものだけを描く姿勢を捨てません、『鉄腕アトム』はそれを自制した初めてのマンガであり、次第に、そういうこともわかってきたと告げています。

 他方、石ノ森は、高校生の頃、東日本にいる投稿仲間を募って「東日本漫画研究会」を組織し、『墨汁一滴』という会誌まで発行しています。

 石ノ森の組織化する能力の高さは、おそらく、姉の存在のおかげでしょう。マンガ家の道を選ぶことに父親は反対していたのですが、3歳上の姉由恵が理解しています。彼女は最初の読者として彼のマンガに目を通し、感想や意見を伝えています。石ノ森は姉とのコミュニケーションを通じてマンガを創作しています。

 高校卒業後、マンガ家になろうと石ノ森は上京します。すぐに、姉もトキワ荘にやってきます。赤塚不二夫が「インドのお姫様」と評したエキゾティックな美貌の持ち主でしたが、喘息の持病があり、1958年4月4日、彼の外出中に、急死しています。石ノ森の描くヒロインは、基本的に、この薄命だった姉の面影があり、その表情には憂いを帯びています。彼は、生涯、20歳の時の出来事を受け入れられずにいます。

 さらに、プロダクションの運営に関しても、両者は明暗を分けています。1961年に創設された(旧)虫プロの失敗についてさまざまなところから手塚の手腕に対する問題が指摘されています。それとは反対に、1968年に設立された石森プロはあまりそういう不評は聞かれません。現在は伊藤忠やバンダイが資本提携しています。

 神様は一人で世界を創造できますが、王様は単独で王国を運営できません。その意味で、手塚が「マンガの神様」で、石ノ森が「マンガの王様」という呼称は適格です。

 手塚の一元主義は、彼が医学を学んでいたという経験からくるのかもしれません。医師は,患者にさまざまな症状が出ているとしたら、それをできる限り一つの原因による表象として物語化できない限り、落ち着きません。頭痛と吐き気という二つの症状があるとしたら、それを別々に捉えないで、引き起こしている一つの原因を見つけ、物語をつくり、診断を下すのです。その意味で、医者はイデオロギー的であり、一元主義者です。

 物語のストーリー・テラーという資質では、手塚には劣るものの、『マンガ日本経済入門』のようなマンガは石ノ森でなければ描けません。と言うのも、経済には多元的視点が不可欠だからです。石ノ森はマンガにおける多様なジャンルを編み出しています。

 手塚は自分は日本のマンガに「悲劇」を導入したと言っていますが、石ノ森は「喜劇」を入れたのです。悲劇には、主人公に対する憐れみと怖れの感情によるカタルシスがあります。英雄がなぜこんな目にあわなければならないのかと英雄だからこそこうならざるを得ないのだというアンビバレントです。それに対し、喜劇ではある社会から新たな社会への移行がエ枯れます。社会の発見と認識があるのです。

 ギャグ・マンガを生み出したのは石ノ森です。いわゆる業界物もそうです。『HOTEL』はよく知られていますが、1959年にテレビ業界を舞台に『テレビ小僧』、1970年に広告業界を扱った『CM野郎』を発表しています。今日から見ても、この先見性は驚異的です。マンガの可能性を拡張したのは石ノ森章太郎です。

 今、日本のマンガ界には神様も、王様もいません。共和制の時代に入ったのかもしれません。ジャパニーズ・クールとしてマンガの人気は世界的です。しかし、人気と質は必ずしも一致しません。

 一般に普及したときには、その本来の面白さが失われている場合も多いのです。と言うのも、辺境にあるものが現状を自明としている中心に対し、異議を申し立て、時スンの存在意義をかけて新たなヴィジョンを提示するからです。その意味で、日本でマンガの時代は終わったと言えます。

 手塚治虫は「やはり辺境になければなればだめなんです。辺境にあって、初めて『じゃあマンガとは』と考え始める」と言い、さらに、対談の最後で、「マンガが昨日まで栄えていたのが、明日からマンガが出なくなるという事態になるかもわからない。そういう時に初めてマンガは目覚めて、われわれは何をなすべきかとこと」と投げかけています。おそらく、今のマンガに欠けているのはこの神様と王様の持っていた意識でしょう。マンガは「試練の嵐」の真っ只中にあるのです。
〈了〉
参照文献
手塚治虫、『ぜんぶ手塚治虫!』朝日文庫、2007年

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?