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小説家失格─石川啄木の小説(4)(1996)

4 二十世紀の人間
 表面張力の大きい啄木は、日記で、「余は、社会主義者となるには、余りに個人の権威を重んじて居る。そればといって、専制的な利己主義者となるには余りに同情と涙に富んで居る」から、「所詮余は余一人の特別なる意味に於ける個人主義者である」と自己定義している。啄木の「個人主義者」としての傾向がドナルド・キーンに「二十世紀の人間」を感じさせる。

 彼の「矛盾」は「個人主義」が導いたものである。啄木はさまざまな思想に惹かれたが、「個人主義者」としての本質は変わらない。彼には周囲と妥協して調和して暮らすなど、とてもできない相談である。彼は「願わくば一生、物を言ったり考えたりする暇もなく、朝から晩まで働きづめに働いて、そしてバタリと死にたいものだ」と何度も考えたかしれないが、「然し、然し、時あって私の胸には、それとは全く違った心持が卒然として起って来る。恰度忘れていた傷の痛みが俄かに疼き出して来る様だ。抑えようとしても抑えきれない、紛らそうとしても紛らしきれない」(『硝子窓』)と思いなおすのが常である。

 二十世紀以前にも矛盾はあったが、それと二十世紀の「矛盾」の相違点は、後者がその存在を認知されているということである。「矛盾」は二十世紀まで非公認だ。十九世紀から二十世紀への数学の移行について、クロード・ヒューゴ・ヘルマン・ワイルは、『数学と自然科学の哲学』において、「数学者たちは、堅固な石材よりなると信じて疑わなかった仰ぎ見る数学の大伽藍が、その眼前の霧の中に薄れていくのを、ただ心を痛めながらじっと見守るのであった」と言っている。これは、数学にかぎらず、二十世紀の思想史上の全般的な特徴である。

 「個人主義」は「矛盾」をあるがままに認める。「矛盾」は多種・多様な視点の混在であり、「個人主義」は近代の政教分離から生まれ、猥雑な資本主義の運動の中で育っている。極端な孤独の中から考えを導き出している社会的ミスフィットにとって、普通の人々を苦しめる世間的な対人関係のもたらす悩みはたんに創意工夫の足りないか、力不足かを露呈しているにすぎない。ミスフィットの悩みは根拠がない。それは生成の苦悩である。まったく啄木には、『荒馬と女』で、マリリン・モンローと共演して欲しかったくらいだ。

 小説家以外のいわゆる純文学者の生涯は経済的に明るくない。自由を愛する社会的ミスフィットとして働けず、売れるかどうか見こみもない文学作品を、良識的な人々の「将来どうするんだ?」という修辞疑問文の騒音に苦しめられつつ、わずかな望みを抱いて、書き続けることを貫き通したとしても、報われず、失意と孤独のままに生涯を終えてしまうことは少なくない。「われわれは自由であっても、しかし不幸であることがありうることを認めなければならない。自由とは、よいことばかりを、あるいは災いの少しもないことを意味するものではない。自由であることは、ある場合には、飢える自由、高価な過ちを犯す自由、または命がけの危険を冒す自由を確かに意味するかもしれない」(ハイエク『自由の条件』)。

 数多の非難を無視して、自由に、自ら相手ゴールに攻めこむことでも知られるコロンビアのGKイギータは、1995年9月、イギリスにおいて、スコーピオン・キックで相手のゴールを阻むという史上初のプレーを披露したのに、誰にも気づかれない。認められぬ天才は彼の孤独がよくわかるだろう。結局、文学者をめぐる環境は、今も、啄木のころとさほど変わっていない。

 啄木の日本的なものを超え、明治にも属してはいない「個人主義」は、それでは、どこからきたのかという疑問が当然わきおこってくる。これに答えるのは極めて難しい。考えられることとしたら、啄木がチャーミングで存在感を持っていたため、「個人主義者」として生きざるを得なかったということになろう。ある人の考え方を形成した外的な理由をあげず、個人的資質に還元することは、個人崇拝につながってしまうことから、あまり健全な結論とは言えないが、そんなことはできそうもない。

 この作家は神童としてチヤホヤされて育ったために、楽天性を持ち続けている。啄木は、それが暗黙の信念になっているから、自我が自意識につぶされず、どんなときでも自信を失わない。彼は明日を信じることができるのであり、暗く、悲観的な作品を書くことができない。「時代の推移という者は君、存外急速なもんだよ。色んな事件が毎日、毎日発生するね。其の色んな事件が、人間の社会では何んな事件だって単独に発生するということは無い。皆何等かの意味で関連している。そうして其の色んな事件が、また、何等かの意味で僕の野心の実現される時代の日一日近づいている事を証拠立てているよ」(『我等の一団と彼』)。

 啄木がああいう小説を書いたことを祝福したい。本来、内向的かつ知的な啄木が小説を書いたのは、自然主義文学の盛んな1906年から1910年までの間、21歳から25歳までの間、実験的な詩集『あこがれ』と直截的な評論『時代閉塞の現状』や歌集『一握の砂』の間である。啄木は、この期間、身近な体験や会話だけの小説以外の創作活動はあまり行っていない。近代小説が書けなかったこと自体、啄木が「二十世紀の人間」であることを示している。彼は二十世紀に登場する小説と言えないような小説、ジョージ・オーウェルの『像を撃つ』のような反近代小説の現代小説を先どりしようとしていたと言える。

 「天才」には、小説はあまりにも複雑で、まわりくどいジャンルである。さもない人物の像を彫り上げ、具体的な人間関係・社会関係を詳細に描かなければならない。問題を目にした瞬間に浮かぶからと解答だけを書いてはいけない。その道筋を示さなければならない。天才にはこの手続きが我慢ならない。

 啄木は、「直截」さを志向するからといって、素朴ではない。彼のこころは、日記を読めばわかるように、「矛盾」し、複雑晦渋だ。不安定で混沌とした生活をしながら、わざわざ難しい作品を書くことはないのであって、自身が複雑晦渋だと承知しているからこそ、単純明快さを表現する。繊細さや緻密さを言い出す人のほうが、概して、そのこころは透明なものだ。小説は、啄木のように「直截」な書き手には、ただいらいらするだけだ。「故郷は人の出で立つ所 年をとるにつれて世の中はますます奇妙になり その模様はますます複雑になる 死と生のために」(T・S・エリオット『四重奏』)。

 啄木ほど技巧を持たない書き手はいない。素人まがいの「直截な表現」だけで文学史に名前を残している。啄木は文学者としては一つのあり方しかできない。登場人物の性格と背景、それぞれの関係、歴史的・社会的状況を詳細かつ丹念に描写して、小説を構成する書き手ではない。啄木は、文学界も含めて、対人関係や対社会関係にも「直截」に振る舞い、処世術は覚える気がなかったし、そもそもできなお。啄木は「直截な表現」の持つ力を信じて、それに文学のすべてを賭けている。

 その力がある水準を超えれば、実は、技巧などなくても、それだけで文学者になれる「理想」を実現した書き手である。啄木は、キレのいい変化球も、コーナーを丹念につくコントロールも、老獪なインサイドワークもなく、ただボールが速いだけの投手だ。しかも、目一杯投げるから、スタミナはない。ディテールにこだわらない彼にはデータは不要である。リリーフでマウンドにあがって、調子がよければ、かけひきなしに、圧倒的な力で相手をぐうの音もでないくらいにねじふせられるが、一度、狂えば、あっという間に四球を連発して大量リードさえもフイにしてしまう。

 彼は、監督にしてみれば、危なっかしく、使いにくい若者である。年寄りは、彼が悲観的にならないように、いつでも自信を持って投げられるように、励まさなければならない。しかし、ファンはこういう「破天荒」で粗削りな絵になる投手を最も好む。啄木は、小説を侮辱しながら、「直截な表現」が文学の中でどの程度の力を持ち得るのかを自由に実証してみせるという使命に気づいている。それは映像に訴える手法である。これが「二十世紀」だ。


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