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植木等に見る僧侶のユーモア(2007)

植木等に見る僧侶のユーモア
Saven Satow
Mar. 28m 2007

「自分がやりたいことと、やらなければならないことは別なんだ」。
植木等

 2007年3月27日、植木等が永眠します。その成し遂げたことは、今さら言うまでもないでしょう。各メディアは、彼の人となりや植木等とその時代をテーマにした追悼を行っています。

 一世を風靡した無責任シリーズに主演していた頃の年齢は30代後半から40代前半です。その歳であのスピードやエネルギーを示していたことは今から考えても驚異的です。しかも、品があります。お色気の話が合っても、嫌味に感じられません。今時の40歳前後の芸人にあれだけのことはできないでしょう。

 植木等の魅力は、何と言っても、他意の高笑いと転調の際のささやくような柔らかい歌声でしょう。それによって、彼は場の雰囲気を自在に伸縮させます。所ジョージや高田純次といった力が抜け、ある種の無責任を芸風としているタレントもいますが、この場の雰囲気を絶妙に伸縮させる能力は見られません。

 それはたんに時代や個人的資質の違いとして片付けられることではありません。

 場の雰囲気を伸縮させられるセンスは、おそらく植木等が僧侶の家庭に生まれ、またそうなろうとしていたことに起因しているように思われてなりません。彼の父親がヒューマニズムに溢れた反骨の僧侶だったことはよく知られています。社会が一つの大きな流れに飲み込まれていくことに抵抗した伝説の人物です。植木等は拘留されている父に差し入れを持っていくこともしばしばだったと述懐しています。

 僧侶は、一般の人以上に、死の世界が身近です。しかし、死は、現代社会において、医学的・法的に決定されます。葬儀は死者をこの世からあの世へと見送る儀式です。僧侶は、その意味で、別れの専門家だとも言えます。

 葬儀は厳粛な場ですから、厳かになおかつ遺族の感情を慮るように読経し、故人の生涯を配慮した一言を列席者にするものです。威勢よく読経されても、やかましいだけで、雰囲気をぶち壊しにしてしまいます。また、ただただ深刻な表情をされても、遺族にとって悲しみが増すだけということもあるでしょう。

 葬儀にはそれぞれに事情があるものです。交通事故で突然亡くなった女子中学生と認知症で徘徊を繰り返した95歳のおじいさんとでは、遺族の感情も同じではないに違いありません。涙を浮かべている列席者もいると同時に、ほとんどつきあいもなかったけれども、しがらみでやってきた人は、次の予定を考えているかもしれません。また、幼い子供は落ち着きなく突拍子もないことを言い、遠くから列席した人は風習の違いに戸惑っているかもしれません。さらに、13回忌の法要ともなれば、葬式とはまったく別の雰囲気に違いありません。

 法事は、概して、とりつくらなければならないという雰囲気があります。だからこそ、笑いがこみ上げることも少なくありません。

 僧侶はそうした法事の場に臨まざるをえません。そのため、僧侶には独特のユーモアのセンスが要求されるのです。

 遺族と一緒に感情的になってしまってはいけませんし、さりとて、突き放すような態度もとれません。その場の雰囲気を伸縮させ、人をほんの少し和ませるような心のゆとりがないと、つとまるものではないのです。

 植木等が具現化していたのは、そうした僧侶のユーモアにほかなりません。紺とだけでなく、テレビ・ドラマや映画、トークでもそれがあります。

 植木等が最もテレビや映画に登場していた時代には、高度経済成長という一つの大きな流れがあります。けれども、あの頃は決して明るく、元気なだけではありません。今とは比較にならないほど貧しさや差別、暴力があからさまです。

 『きょうの料理』の紹介する料理はヘルシーなどというものはまったくなく、カロリーが高く、ボリューム満点です。また、あの頃は庶民にとって酒と言えば日本酒ですから、泥沼に引きずりこまれるように酔った客同士の喧嘩も酒場ではよく見られています。さらに、写真に写っている当時のプロ野球選手の目は、近頃の選手たちと違い、険しく、暗いのです。

 こうした時代の雰囲気に対し、植木等は力強く抗うのではなく、それを絶妙のタイミングと力配分で伸縮させることで笑いを誘うのです。

 翻って見れば、今は多方向に拡散していく時代です。少なくとも、日本社会は高度経済成長のような大きな一つの流れに支配される段階ではありません。そのせいもあって、むしろ、政財界などで、流れを強引に一方向にしたがる動きが活発です。

 しかし、現代人は、葬儀の列席者以上に、さまざまな人たちとグローバルな規模でつき合わざるを得なくなっています。今や僧侶のユーモアは一人の偉大なコメディアンの芸風どころか、社会的に身につけておいたほうがいい心のゆとりです。

 けれども、それを不世出のエンターテイナーの死によって確認しなければならないというのは、本当に残念でなりません。
〈了〉

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