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植民地支配における日本語教育と日本近代文学の成立(7)(2004)

7 屈折した植民地支配
 初代台湾総督府学務部長心得に就任した伊沢修二も、台湾に渡る前は、中華文明を乗り越えられた文明と見なしている。伊沢は1875年(明治8年)に愛知師範学科取調員として、ブリッジウォーター師範学校とハーバード大学で、ルーサー・ホワイティング・メーソンから音楽、アレキサンダー・グラハム・ベルから視話法教授している。伊沢は、日本最初の『教育学』(1882)を刊行し、1886年(明治19年)には、文部省編集局長として『尋常小学読本』の作成を進めている。1890年に国家教育の推進を目的として国家教育社を結成、翌年に文部省を退官した後も、国立教育期成同盟会(1892)や学制研究会(1894)を組織している。1897年に台湾から戻った後、貴族院議員として学制改革を実施している。

 伊沢は、1895年、台湾に向かう前、『台湾教育談』において、「無文字の蛮族にあらずと雖も、今日の教育を見るとき蠢愚たる一動物の境界に沈み居る」と言い、表意文字は、西洋で使われている表音文字に比べて、非効率であるから、漢字はカタカナに置き換えなければならないし、また儒教は非実用的教養にすぎないのであり、排斥すべきだと考えている。

 漢字は従来「表意文字」と見なされてきたが、近年、「表語文字」と呼ばれている。と言うのも、漢字は一字で一つの意味を持つのみならず、特に、漢文のような古典語においては、それがそのまま語として機能するからである。

 ところが、伊沢は、台湾に着任し、台湾の人々に接して、考えを改めていく。伊沢は、1897年、『台湾公学校設置に関する意見』の中で、「四書五経、斯ふ云ふものは、どうしても台湾人としては知らなければならぬ」として、漢字や漢文、儒教を教育内容に導入する必要性を説き、「台湾の人々はなかなか書が上手です。大概の日本人には、台湾人くらいに書ける人は少ない」と演説している。伊沢は、日本の勝利は軍事力の勝利にすぎず、文化的に勝利したわけではないのであって、中華文明が日本の文化の基盤であることを再認識している。

 伊沢は中華文明にしても、西洋近代文明にしても、直接触れている。1851年(嘉永3年)に信濃の高遠《たかとお》藩の下級武士の長男として生まれた伊沢は藩校である進徳館で漢文を学んでいる。江戸時代、いわゆる鎖国を続けていたため、多くの日本人は漢文学に接していたものの、それは言説として理解していたにすぎない。伊沢にとって、当初、中華文明にしても、西洋近代文明にしても、想像の世界に属していたが、渡米して初めて西洋文明を実感し、台湾に渡って中華文明を再発見している。台湾の植民地支配の現場に立つ伊沢は、その結果、「混和主義」を掲げる。

 中国の近代化の遅れが中国人の「重荷(Burden)」に起因することを伊沢を含めた脱亜主義者はまったく考えていない。中国は、周辺国の日本と違い、「朝貢貿易」と呼ばれる東アジアにおける経済行為の中心である。朝貢貿易は近代以前に中国が諸外国との間で行った独特の貿易形態である。古来、中国周辺の諸民族、すなわち夷狄は、中華の優れた文化や豊かな物産を求めて貿易や交流を望み、中国は相手国の王が臣下となるのを貿易の前提条件としたことがその由来である。これを華夷秩序と言い、皇帝制度はそれを保証する権威であったため、その変革は経済的な混乱をもたらすことになりかねず、慎重にならざるを得ない。中国の政治・経済体制が東アジアにおける機軸である。当然、先に西洋近代文明と接触していても、中国の近代化は、日本の場合以上に、困難である

 同様のことが、イスラム圏にも言える。近代の変化の対応に遅れた地域は本格的な中世を経験してきた地域である。近代において、中世をまったくもしくは本格的に体験してこなかったヨーロッパや日本、アメリカが世界的に台頭する。「日本とヨーロッパには奇妙な平行現象があって考えやすい。どちらも本格的な中世がなくて、ルネサンスがある。西洋史では扱わぬが、日本史なら江戸時代をさす近世という概念が、ルネサンスと近代とのつなぎに便利。中国やペルシアのような本格的な中世になるとこうはいかぬ。長安やバグダッドは別世界としか思えぬ」(森毅『時の渦』)。イスラム圏や中国が中世において世界の中心であったために、ヨーロッパや日本のような周辺と違い、その遺産と責務から、近代という変化への迅速な対応が困難である。

 すでに何度か言及してきたように、戦前の日本の植民地支配には屈折がある。欧米の植民地支配は「白人の重責(The White Man's Burden)」(ラドヤード・キプリング)、すなわち近代文明の宣教であり、支配者と被支配者の関係は明確である。日本は、他のアジア諸国と比較して、たんに近代文明を欧米から先に取り入れていただけだ。日露戦争に勝利した日本を見て、マハトマ・ガンジーが「あれは日の丸ではない。ユニオン・ジャックだ」と言っているように、日本は被支配者にとって近代文明の媒介者にすぎない。

 けれども、脱亜入欧を果たした日本は東亜の共栄圏のリーダーシップをとり、日本人は「名誉白人の重責(The Honorary White Man’s Burden)」を背負わなければならないと思い上がってしまう。1856年から六四年に渡る太平天国の乱が示している通り、中国の民衆の方が、列強の帝国主義に対して、日本以上に激しい抵抗運動を続けている。しかも、歴史的に、日本文化は中華文明の強い影響下にあったのであり、支配する側が支配される側に文化的に負っている。

 国定教科書の編纂に関わった巌谷小波《いわや・さざなみ》がつくった次のような詩『ふじの山』は、朝鮮半島を植民地にした翌年の1910年(明治43年)、『富士山』として文部省唱歌に取り入れられる。これは当時の日本「国民」の優越感とその矛盾を表象している。

あたまを雲の 上に出し
四方の山を 見おろして
かみなりさまを 下に聞く
富士は 日本一の山

青空高く そびえ立ち
からだに雪の 着物着て
霞のすそを 遠くひく
富士は 日本一の山

 フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨゼフ・フォン・シェリングは、自然は目に見える精神であり、精神は目に見えない自然であって、両者は根元的に同一であると言っている。ロマン主義者にとって、ジャン=ジャック・ルソーが『告白』の中で精神とアルプスの自然との合一を書いているように、山は極めて重要な意味を持っている。実際、戦後になっても、皇族はしばしばワンダーフォーゲルを楽しんでいる姿をメディアを通じて「国民」にアピールしている。

 『富士山』は富士山を通じて日本人の優越感を描いている。美しさではなく、富士山の高さを賛美しているのに、「日本一の山」となるのは、当時、富士山より標高が高い新高山(現玉山)が台湾にあったためである。富士山が「日本一」の象徴であるとすれば、それは一義的でなければならない。ところが、富士山がいかなる意味で「日本一」なのかこの歌詞では不明確なままである。

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