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政治を真面目に受けとること(2018)

政治を真面目に受けとること
Saven Satow
May, 28, 2018

「たとえば暗殺が全然なかったら、政治家はどんなに不真面目になるか、殺される心配がなかったら、いくらでも嘘がつける」。
三島由紀夫

 「クリトン、アスクレピオス神に鶏の借り物がある。それを忘れずに返して欲しい」。そう言い残してソクラテスは息を引き取ります。このソクラテスの刑死は民主主義に対する純氏です。それはソクラテスが政治を真面目に受けとったことを示しています。

 紀元前399年、ソクラテスは「アテナイの国家とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」などの罪状で裁判にかけられます。原告は詩人のメレトスで、政界の有力者アニュトスらがそれを後押ししています。

 裁判への参加がアテナイ民主主義の原点です。ここから始まった市民参加が政治における意思決定にも拡張しています。

 近代社会において法は議会の審議を経て制定されます。それは法が人為的であることを意味します。一方、前近代において法は超越者によって与えられるもの、もしくは共同体における長年の慣習です。法は人為的ではありませんから、解釈自体が立法行為ということになります。

 抽象的・一般的な規範を具体的・個別的なケースに適用させるために、裁判に参加した市民が解釈します。これは市民が立法に参加していることです。アテナイは法によって支配されています。その立法を市民が担っているのですから、統治形態は民主主義になります。

 ソクラテスはこの裁判においてかの有名な弁明を行っています。しかし、500人のアテナイ市民がソクラテスの罪は死刑に値すると評決を下します。これは民主主義に則ったアテナイ市民の一般意思です.

 判決から約30日後の深夜、プラトンの『クリトン』によると、獄中で死刑執行を待つソクラテスの元に友人のクリトンが訪れます。翌朝の夜明けに「死刑執行停止の解除」を意味するデロス島からの聖船が帰還する予定です。クリトンは懇意にしている牢番を通じて獄へ入り、ソクラテスに逃亡することを勧めます。

 ソクラテスは「熟考の結果、最善と思われる考え」に基づいて判断するとしてクリトンと問答を始めます。その際、不正は悪であるから、それに対して不正で報復することはしないと付け加えています。

 ソクラテスは生涯を通じてアテナイで暮らしています。これは強制でなしに、納得の上です。アテナイは法の支配に基づく民主主義国です。それによって市民として権利が保障され、自由でいられます。アテナイから離れて暮らすこともできましたが、その理由により、ソクラテスはとどまっています。

 法が権利を守ってくれるのですから、従うのは市民としての義務です。しかし、それは無批判的に従属することではありません。既成の法に間違いがあったならば、真の法に基づいて説得によって改めさせねばなりません。これも市民の義務です。

 民主主義的手続きを通じて決められた判決に従わず脱獄したなら、それは、実力行使ですから、暴力です。暴力は不正なので、悪に当たります。

 脱獄してアテナイから離れても、法を破った人はよい国家から信頼されません。自分たちの国家でも同様のことをするのではないかと予想し、迎い入れないでしょう。悪いポリスだけが受け入れる可能性があります。けれども、そこではよい生き方ができません。法による権利保障がないので、自由ではなく、奴隷に堕するほかないのです。

 また、脱獄はよい国家も悪くさせかねません。気に入らないとして法に従わない人が現われれば、それなら自分も守る必要はないと他の人も考えるに違いありません。結局、誰一人として従わなくなり、法に対する市民の信頼はなくなってしまいます。法の支配が消えれば、市民の権利も保障されません。自由でないのですから、奴隷として生きざるを得なくなります。

 法の支配の外に置かれることは決して自由ではありません。奴隷です。奴隷は誰かの所有物で、自由が保障されていません。自由は法の支配によって権利保障されている状態で初めてあり得るのです。自由でなければ、よい生き方が追及できません。よく生きるためにはよい法の支配が必須です。

 ソクラテスは裁判で具体的・個別的な法解釈が正しくないとして、それに対する異議を申し立てます。これは市民としての義務です。けれども、彼の説得は功を奏せず、市民は死刑判決を決めてしまいます。

 民主主義的決定に従わず、ソクラテスが脱獄すれば、アテナイの法制度が破綻します。それはこれまで論じてきたことから明らかでしょう。判決には不満があったとしても、民主主義の法の支配への信頼のために、ソクラテスは死刑判決を受け入れるのです。

 ソクラテスは政治を真面目に受けとっています。もちろん、ただ訴えを受容したのではありません。それは不当であると言葉で裁判に参加した市民の説得を試みます。ソクラテスは市民として最善を尽くしています。しかし、民主主義によって一度出された結論は重いのです。法の支配への信頼をなくさせないために、民主主義の結論は重くしなければなりません。自分自身を死刑にしたとしても、アテナイの民主主義は守らねばなりません。ですから、ソクラテスは民主主義に殉死するのです。政治を不真面目に受け取ることが問題であるのは、それが法制度への不信をもたらすからです。

 ソクラテスの刑死には後日談があります。アテナイの市民はソクラテスを死刑にしたことを後悔します。しかし、覆水は盆に返りません。そこで、人々は告訴人たちを裁判抜きで処刑したと伝えられています。ソクラテスが決死の思いで守ろうとしたにもかかわらず、法の支配はもはや機能していません。裁判の時点で市民がすでに政治を真面目に受けとらなくなっていたからでしょう。紀元前338年、アテナイはマケドニアにカイロネイアの戦いで敗れます。以後、政治的独立は失われてしまいます。ソクラテスの死からおよそ60年後のことです。

 西洋政治理論の伝統において最も古くからある課題の一つが僭主、すなわち独裁者の防止です。独裁者は国家を私物化します。その下で人々は自由でないから、奴隷、すなわち独裁者の所有物です。

 独裁者は服従を求めます。服従は相手の所有物になることです。独裁体制で生きることが保障されていたとしても、それは権利ではなく、施しでしかありません。服従の対価です。ですから、独裁政治ではよく生きることができません。

 先に述べた通り、法に従わない者が現われると、システム全体が破綻します。独裁者はそれを具現化しています。独裁者は社会の混乱に乗じて権力を奪います。法ではなく、恣意によって支配、社会を分断、相互交流・信頼を妨げ、人々を対立させ、自らに服従させます。独裁者自身が法の支配に従わないのですから、義務を放棄しています。自ら果たさず、人々に求める服従は市民としての義務ではありません。法の支配に基づく権利と義務でなしに、恣意による命令と服従が社会を覆いつくします。

 恣意は共通善、すなわち公共の利益に基づいていません。その動機は私的利益追求や気まぐれですから、判断がころころ変わります。独裁者は、自分の都合で、決定を変更します。決定を軽んじれば、言葉もつねに軽くなります。独裁者は政治を不真面目に受けとっているのです。

 独裁者の代表と言えば、アドルフ・ヒトラーでしょう。ヒトラーは息を吐くように国民に嘘をつき、従来からの慣習や法制度を軽んじています。全権を掌握し、国民に服従を求めています。

 見逃されがちな不真面目さの手口を一つ挙げましょう。ヒトラーは国民投票を乱用し、決定を軽くしています。乱用は形骸化につながります。民主主義では決定を重くするために、投票はある程度期間を置かなければなりません。希少な機会である以上、人は熟慮し、意を決して行動します。それにより決定の重みが増します。選挙やレファレンダムが実施に間隔を置くのはそのためです。しかし、頻繁であれば、人は慣れ、投票を真面目に受けとらないようになります。国民が政治を真面目に受け取ることがなくなれば、独裁者には好都合です。

 その独裁者を最も招きやすい政体として政治理論が捉えているのが民主主義です。民主主義では市民が統治に携わり、意思決定を過程に加わります。しかし、市民が公益よりも私益を追い求めるようになると、衆愚政治に陥ります。その際、イデオロギーも絡みつつ、私益をめぐって党派対立も激化します。この混乱状況に乗じて独裁者が出現するのです。

 近代では、私益追及のみならず、人まかせや無関心も衆愚政治を招く原因に含まれるでしょう。そうした人々はフリーライダーと呼ぶこともできます。有権者にとって政治を真面目に受けとることはフリーライダーにならないことを意味します。有権者が政治を熟慮して行動すれば、民主主義への信頼は増大します。他方、民主主義への信頼はフリーライダーの出現によって崩れてしまいます。その理由は先に示したソクラテスの指摘から明らかでしょう。

 有権者が政治を真面目に受けとらなかったことが招いた事態の例を二つ挙げましょう。2002年のフランス大統領選挙の際、社会党候補リオネル・ジョスパンは一回目の投票において3位にとどまります。国民戦線候補ジャン=マリー・ルペンが2位につけ、決選投票に進んでいます。左派の支持者がジョスパンを少々懲らしめてやろうとルペンに少なからず投票したからです。もちろん、彼らの多くはこの結果を望んでいません。

 また、2016年、イギリスでEU脱退の是非を説く国民投票が実施され、有権者はブレクジットを選択します。ところが、結果公表後、有権者の中に賛成票を後悔する声が上がったり、先導した政党関係者から無責任な発言が飛び出したりしています。

 いずれの場合でも、政治を真面目に受けとっていない人が主権者の間に少なからずいたことを示しています。大勢に影響はなかろうとフリーライダーでいたら、予想に反した結果が現われています。けれども、民主主義による結論は重いのです。そうやすやすとやり直しなどできません。ですから、政治を真面目に受けとる必要があるのです。

 しかし、今の日本の政治の不真面目さはこの二例の比ではありません。安倍晋三政権の政治は不真面目そのものです。挙げればきりがありません。そもそも安倍首相自身が政治を不真面目に受けとっています。嘘をつき、非論理的な国会答弁をし、法の支配をないがしろ、解散権を乱用、縁故主義の統治、社会を分断、人々に服従を求めています。安倍首相は、これまで論じてきたことから明らかなように、国家を私物化する独裁者です。彼にとって国民は所有物にほかなりません。「すぐれてイデオロギー的な現象である言葉は、絶え間なき生成と変化の中にあり、社会的変動のすべてに敏感に反映する。言葉の運命の中には、話し手の社会の運命がある」(ミハイル・バフチン『マルクス主義と言語哲学』)。

 安倍政権の下、ソクラテスが生きていた時代の社会に舞い戻ったような光景が連日展開されています。ソクラテス裁判さながらに、ネトウヨがレイシズムと戦う弁護士に対して大量の懲戒請求を出しています。また、政府は国会でご飯論法などソフィストまがいの答弁を繰り返しています。こうした堕落が示しているように、現在の日本の最大の課題は真面目な政治の回復です。

 そのためには、国民が主権者として政治を真面目に受けとることが不可欠でしょう。不正な政治に対して、それが続く限り、怒りを示さないことは不真面目です。この5年間というもの、政権が続いている以上、有権者が政治を真面目に受けとってきたかはなはだ疑問と言わざるを得ません。不祥事が発覚しても、政府は少し待てば世論は忘れるだろうとだらだらと時間稼ぎを始め、実際、その通りになります。国民が政治を真面目に受けとっていたら、このような事態は起こり得ません。政治を不真面目にした責任は主権者にもあります。政治を真面目にするには、ソクラテスに倣い、主権者自身が真面目に政治を受けとらなければならないのです。
〈了〉
参照文献
ミハイル・バフチン、『マルクス主義と言語哲学』、桑野隆訳、未来社、1989年
プラトン、『ソクラテスの弁明ほか』、田中美知太郎他訳、中公クラシックス、2002年

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