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なぜ被害者が非難されるのか(2019)

なぜ被害者が非難されるのか
Saven Satow
Jun. 01, 2019

「反ユダヤ主義者がユダヤ人を作る」。
ジャン=ポール・サルトル『ユダヤ人』

 事件の被害者であるにもかかわらず、周囲や世間がその人を非難することが少なからずあります。原因を被害者に求め、事件発生の責任を追及するのです。こうした「犠牲者非難(Victim Blaming)」の最近の例として、山口真帆さんをめぐる事件が思い浮かびます。もちろん、この件に関しては背後関係があり、そのために被害者が非難されていると見るべきでしょう。利害関係者が保身から被害者を貶めているというわけです。ただ、こうした対応がとられるのは、世の中で犠牲者非難が珍しくないからです。

 犠牲者非難と言っても、一方的に被害者を責め立てるだけではありません。加害者に同情するわけではないにしても、被害者にも落ち度があったと口にする人もいます。いずれにせよ、被害者に事件を誘発する原因があると見ています。

 犠牲者非難が起きると、日本の固有性から説明する言説を耳にします。しかし、これは適切ではありません。と言うのも、被害者に対する非難は世界的に心理学の研究テーマの一つだからです。犠牲者非難は原因帰属をめぐる認知バイアスの問題に属しています。

 人は自分が知覚・体験したことの理由がどこにあるのか思いをめぐらせます。その際、そうした認知にバイアスが働くことが少なくありません。一例を挙げると、人は概して自分に甘く、他人に厳しいものです。

 待ち合わせに遅刻したとしましょう。自分が遅れた場合、電車がダイヤ通りでなかったからなど状況に原因を求めがちです。他方、他人が遅れた場合、時間にルーズだからなど性格に原因があると捉えがちです。このように原因の帰属先が自分と他者とで異なって認知されています。原因帰属に認知バイアスが働いているのです。

 なぜ被害者が非難されるのかをめぐる最も有力な学説の一つが「公正世界仮説(Just-world Hypothesis)」です。これは「公正世界誤謬(Just-world Fallacy)」とも呼ばれ、この世界は行いに対して公正な結果をもたらすとして認知バイアスが働くという仮説です 。カナダのウォータールー大学のメルヴィン・ラーナー(Melvin Lerner[edit])教授が1980年に提唱しています。

 一般的に、人は行いにはそれにふさわしい結果が伴うという公正さの信念を持っています。善行には幸福、悪行には不幸がもたらされると暗黙の裡に信じているわけです。実際、宗教や生活道徳はこの世界が公正にできていると説いています。それは「因果応報」や「信ずる者は救われん」などからもわかるでしょう。

 こうした信念は道徳的に生きることの動機づけになります。世界は公正です。善いことをすれば、幸福になれます。その一方で、悪いことをすれば、不幸な目に遭うのです。それなら、悪を避けて、善く生きようとするでしょう。

 反面、この信念の下では、忌まわしい事件・出来事に遭遇した時、それは被害者の行いに問題があったからだと認識しかねません。落ち度がないのに不幸な目に遭うとしたら、世界が公正だという前提が崩れてしまうからです。「津波は天罰」の石原慎太郎元東京都知事による災害天啓説の発言はこの典型でしょう。

 自然災害ですらそうなのですから、犯罪のような人為的行為で被害者非難が生じても不思議ではありません。世界は公正ですので、善いことをしている人が事件に巻き込まれるはずがありません。それは原因がその人にあるからだと考えるほかありません。このようにして、被害者に責任があると人は責め立てるのです。

 ただし、この公正世界仮説は形而上学的主張ではありません。実験とその結果の分析に基づく心理学の知見です。詳細に触れる余裕はありませんが、それに関して疑問が提起されたり、その反論が示されたりしています。ラーナーは協力者と共に1960年代後半からこの研究を続けています。直観や経験ではなく、あくまで科学的手続きに沿って導き出された仮説です。

 ラーナーは、この説をスタンレー・ミルグラムの服従実験、いわゆるアイヒマン実験の系譜に位置づけています。1966年、ラーナーらは、虐待への第三者の反応を調べるためにミルグラムと同様の電気ショックを用いた実験を行います。カンザス大学での最初の実験では、72人の女性被験者が諸条件下でサクラの参加者が電気ショックを受ける様子を見せられています。自ら手を下さず、あくまで第三者です。当初、苦しむ姿を目の当たりにした被験者は動揺しましたが、それを続けて見ているうちに、その被害者を蔑むようになっていきます。苦痛が大きくなるほどにバカにした態度を示すようにさえなります。ところが、後で被害者が金をもらったサクラダと明かされても、被験者は彼らを軽蔑することなどありません。これ以降もラーナーらは実験を続け、同様の結果が現われています。

 ミルグラムの実験との違いは当事者であるか、第三者であるかです。第三者が不幸な目に遭った被害者に対してどのような応答を示すのかが調査のポイントです。しかも、被害者を嘲っていたのに、彼らはそれがサクラだと知ると、軽蔑をしません。この第三者による犠牲者非難の結果を分析したのが公正世界仮説です。

 ミルグラムがホロコーストの実行に置ける状況の力を明らかにしたとすれば、ラーナーはユダヤ人に責任があるとして差別を許してしまう非ユダヤ人の認知行動の理由を説明したと言えます。世界は公正である以上、それに手を下していない第三者であっても、ユダヤ人が差別されるのは彼らに原因があるからだというバイアスがそこにあることになります。

 この世界が公正であると信じている人ほど、この仮説に従うなら、被害者を非難しかねません。これは道徳性のパラドックスとも言えます。この仮説は慣習的規範意識が強いなどの保守的な地域・組織・個人では犠牲者非難をしがちではないのかという問いにも確かに合致します。公正世界を前提とする道徳がある限り、不幸な事件・出来事の責任を被害者に見出す言説が生じる可能性があることを自覚していなければなりません。被害者を非難しようとする時、世界が公正であるとしても、自身の認識が果たして公正であるかを自問することが必要なのです。
〈了〉
参照文献
森津太子、『社会心理学特論』、放送大学教育振興会、2013年

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