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子役は大成しない(2012)

子役は大成しない
Saven Satow
Feb. 06, 2012

「子に過ぎたる宝なし」。

 2011年に最も日本中から引っ張りだこだった女優は、おそらく、芦田愛菜ちゃんでしょう。3・11に見舞われた社会にあって、彼女はその小さな背中に大きすぎるものを背負いながらも、あまりに十分すぎる貢献をしています。

 けれども、最近、芦田愛菜ちゃんをめぐって不吉な経験則がささやかれています。それは「子役は大成しない」です。天才との人気を博しながら、子役は成長すると、概して、成功しないものだというわけです。このジンクスは日本だけでなく、実は、アメリカでも通じます。

 その理由があれこれ詮索されもします。個々の事情も、もちろん、考慮する必要があります。よく言われることは、子どものころのかわいらしさが大人になると消えてしまうからだという説です。けれども、これは説得力を欠きます。と言うのも、かわいいことは確かですが、画面を通じて伝わってくる演技も大きな魅力だからです。そうでなければ、「天才」と呼ばれません。卓越した演技力を示しながら、その後は伸びきれないという印象があります。子役が大成しない最大の理由は子どもを演じるスペシャリストという点でしょう。

 実際の子どもは千差万別です。性格や境遇、年齢、発育速度など子どもは大人よりも個体差が激しいのです。けれども、子役には実体としてではなく、概念としての「子ども」を演じることが求められます。その「子ども」は同時代的な人々の願望とも言えます。

 そんな子役も成長すれば、子どもを演じることができなくなります。大人の俳優がシリーズ化した作品で同じ役を長く続けるようにはいかないのです。ところが、大人になれば、さまざまな役を演じなければなりません。正社員、派遣社員、公務員、医師、弁護士、介護職員、接客業スタッフ、専業主婦などこのリストは延々と続きます。けれども、「大人」という役はないのです。概念ではなく、実体としての大人を演じる必要があるのです。

 子役は「子ども」を演じるスペシャリストです。しかも、それは時代の制約を受けています。特化している分、時代の変化の中で、別の役の演技をすることが難しくなります。子役が大成しようとしたら、この壁を突破することが必要です。しかし、それは非常に困難なのです。

 ただ、舞台出身者にはこのジンクスは必ずしも当てはまりません。幼いころから舞台に立ち、成人してからも成功する俳優は少なくないのです。伝統演劇がよく知らていますが、大衆演劇でも見られます。浅香光代はその好例です。

 この違いはカメラの前と舞台の上という演技のリテラシーの差異に起因します。

 映像では、カメラのサイズとアングルを変えるだけで、印象が異なります。さらに、撮影後に編集作業が加わります。ですから、演技は加工しやすい未完成のものが求められるのです。制作者にすれば、子役には、できれば、上達などせずに、永遠にそのままでいて欲しいのです。

 一方、舞台では、事後の加工ができません。幕が開けば、舞台は俳優に支配されます。完成した演技が評価されるのです。子役の場合も演技がその年齢にふさわしい水準に達しているかが問われます。発達段階論的に把握されるのです。子役として舞台を踏んでも、段階論に位置づけられますから、その後に若者、さらに大人へと成長して役を演じることができるのです。

 テレビの天才子役は、同時代的な願望である概念としての「子ども」を未完成のままで演じ続けられる俳優のことなのです。

 「子役は大成しない」というジンクスは映像表現のリテラシーがもたらす現象です。子役には演技の成長が要求されません。しかし、その分、時代と社会の気分をよく反映してもいます。芦田愛菜ちゃんが今後どうなるかわかりません。けれども、彼女は3・11の記憶と共にあるのです。心ある人々は3・11を忘れることなどありません。彼女は社会のこの思いと固く永遠に結びついているのです。

 大人は再び子どもになることはできず、もしできるとすれば子どもじみるくらいがおちである。しかし子どもの無邪気さは彼を喜ばさないであろうか。そして自分の真実さをもう一度つくっていくために、もっと高い段階で自らもう一度努力してはならないであろうか。子どものような性質のいい人にはどんな年代においても、彼の本来の性格がその自然のままの真実さで蘇らないだろうか。人類がもっとも美しく花を開いた歴史的な幼年期が、二度と帰らない一つの段階として、なぜ永遠の魅力を発揮してはならないのだろうか。しつけの悪い子どももいれば、ませた子どももいる。古代民族の多くはこのカテゴリーに入る。ギリシャ人は正常な子どもであった。彼らの芸術がわれわれに対して持つ魅力は、その芸術が生い育った未発展な社会段階と矛盾するものではない。魅力は、むしろ、こういう社会段階の結果である。それは、むしろ、芸術がそのもとで成立し、そのもとでだけ成立することのできた未熟な社会的諸条件が、再び帰ることは絶対にありえないということと、固く結びついていて、切り離せないのである。
(カール・マルクス『経済学批判』)
〈了〉
参照文献
カール・マルクス、『経済学批判』、武田隆夫他訳、岩波文庫、1955年

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