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認知的不協和の政治(2016)

認知的不協和の政治
Saven Satow
Nov. 06, 2016

“I prefer to rely on my memory. I have lived with that memory a long time, I am used to it, and if I have rearranged or distorted anything, surely that was done for my own benefit”.
Leon Festinger

 第二次大戦終結に際して、ブラジル日系人の間で、日本が連合国に降伏したことをデマとして信じない「勝ち組」と事実だと受け入れる「負け組」が生まれる。両者は衝突、暴力沙汰まで起きている。勝ち組は1950年代後半まで日本の敗戦を信じず、日系人社会は大きな亀裂を抱える。明らかに認知が間違っているのに、それを示されても、信用せず、自身の信念に固執する。

 2016年5月21日放送のNスペ『そしてテレビは“戦争”を煽った ~ロシアvsウクライナ 2年の記録~』 も同様の現象を伝えている。ロシアとウクライナが武力衝突した際、両国のテレビは扇動的映像を流している。そこに映し出された映像に事実と違う説明が付け加えられ、いかに相手が非人道的であるかを煽る。少なからずの満ち足りない思いで生きていた人が義憤を感じて戦場に向かう。負傷したり、障碍を負ったりして帰還する兵士もいる。その彼らはあの情報がデマだったと伝えられても、それを信じない。

 明らかに誤っていたと判明した後でも、なぜ信念にしがみつくのかの理由は皇道にある。行動は取り返しがつかない。不可逆的である。行動と認知が不協和を生じた場合、前者は不可逆的であるから、後者を変更する。行動を反省的に捉え、認知を進化させることが賢明だろう。ところが、行動を正当化するように認知を編集し、さらにそれに従って動く人が少なくない。

 これを「認知的不協和(Cognitive Dissonance)」と呼ぶ。防衛機制の一種と位置付けられる。人は行動をめぐって矛盾した認知を抱くと、解消するように、それを正当化する態度をとる。こうした心理操作はアメリカの心理学者レオン・フェスティンガー(Leon Festinger)によって提唱されている。彼は終末予言を信じる集団に潜入したフィールドワークを通じてこの概念を具体的に示している。

 古今東西、世界の終わりを予言する宗教は少なくない。中には、近い将来の具体的日付を指定する集団もある。現時点で終末は到来していないので、予言は外れたことになる。共通認識が崩れたのだから、その集団は衰退に向かうと予想されるが、実際には、布教活動がさらに熱心になることがある。

 レオン・フェスティンガーは、協力者数人と共に、1954年12月21日に大洪水が起きて、世界は水没し、選ばれた者だけが救われるという予言を信じる集団に3か月間潜入・観察している。彼は、スタンリー・ シャクター (Stanley Schachter)やヘンリー・W・リーケン (Henry W. Riecken),らと共同で 『予言がはずれるとき―この世の破滅を予知した現代のある集団を解明する(When Prophecy Fails: A Social and Psychological Study of a Modern Group that Predicted the End of the World)』(1956)にその記録をまとめている。

 同書は集団の予言者を「マリアン・キーチ(Marian Keech)」と仮名で呼んでいる。本名は「ドロシー・マーティン(Dorothy Martin)」である。予言を語るだけでキーチ夫人はメディアへの露出も避け、広報活動にも携わらない。ところが、予言が外れた後、彼女は自らメディアに電話をかけ、活発な布教を開始する。宗教にとって重要なのは信者数が増えることである。予言云々は些細なことだ。彼女はそのように行動する。予言が間違っていたと行動と反省的に向き合い、認知を進化させることをしない。

 また、去る人もいるが、信奉者の中にも残る人がいる。彼らは概して予言へのコミットメントが深く、財産を失うなど今さら日常生活に戻れない人たちである。

 この研究はなぜ人がカルトから離れられないのかという疑問への一つの回答として言及される。行動を正当化し、今さら後戻りはできないとばかりに一貫性を保つ心理的操作であるから、それを覆す知識に触れても、受け入れない。むしろ、都合のいい情報や解釈に飛びついたり、同じ価値観を持つ者と正しさを確認したりして、信念を強化する。それは自らの行動に過ちがないという一貫性の確保にたどり着く。無謬である。

 カルトが自らを無謬としてアピールする仕組みはここにある。言うまでもなく、自らの行動を正当化するように知識が組み立てられるので、他の減少や出来事、事件などとの整合性がない。

 ただ、認知的不協和はカルトの洗脳もさることながら、学校の部活や入寮儀式、新入社員研修でも利用されている。猛特訓を受けたり、大勢の前で赤っ恥をかいたりしたとしよう。やめようかといお思いがよぎる。しかし、今さら後には引けない。そこで、耐えられたのだからとかいいところもあったからと認知を修正し、行動を正当化する。その際、行動をもたらした組織への忠誠心を強くする。組織がしばしば合理的と思われない訓練や行事、研修を用いるのはそれも一因である。

 認知的不協和は、イソップ寓話の『酸っぱいブドウ』と同じ心理的操作であり、日常生活でもよく見られる。自分のミスを認めたくないのも人情だ。しかし、最も認知的不協和が働くのは、冒頭に触れた戦争に対してだろう。日本では歴史修正主義が典型例である。歴史修正主義は15年戦争を全肯定するために、戦前の日本を無謬とする。

 歴史修正主義は特定のイデオロギーにとらわれず戦前を検討しようとする歴史認識とは違う。15年戦争という取り返しのつかない行動を正当化するために、戦前の体制には過ちが皆無で、戦後を否定する認知を抱く。批判に対しては都合のいい情報や解釈を並べ立て、自虐的だと罵倒する。戦争を教訓として反省的に向き合い、そこから認知を進化させる気がない。

 当然、現代の国際社会が共有している歴史認識と対立する。世界は戦争に反省的に向き合い、平和の実現を目標にしている。ところが、共通理解に基づいて取り組むべき現代的課題に歴史修正主義は積極的な提言をできない。

 もちろん、現在の歴史修正主義者の多くに戦争体験はない。彼らは戦後にその信念を学習している。きっかけは家庭環境などさまざまだろう。その信念に基づいて行動し続けると、それを覆す知識と接触しても、認知的不協和から受け入れない。都合のいい情報や解釈、自分と同じ信念を持つ人たちを根拠にこれまでの行動を正当化する。戦前の無謬は自身のそれと一体化している。過ちはすべて戦後にあり、自分以外にある。歴史修正主義はカルトと同様の認知行動の構造をしている。

 今の日本の政府・議会に歴史修正主義者が入りこんでいる。彼らは認知的不協和解消のために、戦前を肯定し、戦後を否定する。それは無謬の政治へと行き着く。しかし、そのような認知や行動は独善である。安倍晋三首相がよく物語っている。
〈了〉
参照文献
レオン・フェスティンガー他、『予言がはずれるとき この世の破滅を予知した現代のある集団を解明する』、水野博介訳、勁草書房、1995年

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