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梶井基次郎、あるいは冴えかえった色彩(7)(1993)


7 レモン・ボム
 『檸檬』に戻ってみると、「何のことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ」という時点においては、主人公は「錯覚」によってアポロ的に世界を形象化しているだけで、ディオニュソス的な破壊=陶酔=一体化にまで至っていない。アポロ的な側面のみによるそうした近代認識論に対する破壊の企ては、「現実の自分自身を見失う」ことによって、すなわち「錯覚」によって達成されているにすぎず、不十分であり、厳密には失敗である。ディオニュソスよりもアポロのほうが優勢で、混沌は秩序によって整理される。

 私が権限を強く行使して、自己を抑圧し、隠蔽する。「通常仮象と美を唯一の範疇として理解されるような芸術の本質からは、まともに悲劇的なるものを導出することは全く不可能である。音楽の精神から、われわれははじめて固体の破壊にたいする歓喜を理解するのである。というのは、かかる破壊の個々の実例によってわれわれに明らかにされるものは、いわば個別化の原理の背後に潜む意志の全能を、すなわち、あらゆる現象の悲願にあっていかなる破壊にもめげざる永遠の生を、表現するディオニュソス的な芸術の永遠の現象にほかならぬからである」(『悲劇の誕生』)。

 そこで、『檸檬』の主人公はそうした時間や空間を最終的に爆破することを次のように思いつく。

 以前にはあんなに私をひきつけた画本がどうしたことだろう。一枚一枚に眼を晒し終って後、さてあまりに尋常な周囲を見廻すときのあの変にそぐわない気持を、私は以前には好んで味っていたのであった。……
 「あ、そうだそうだ」その時私は袂の中の檸檬を憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試して見たら。「そうだ」
 私にはまた先程の軽やかな昂奮が帰って来た。私は手当り次第に積みあげ、また慌しく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取去ったりした。奇怪な幻想的な城が、その旅に赤くなったり青くなったりした。
 やっとそれは出来上がった。そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬を据えつけた。そしてそれは上出来だった。
 見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の諧調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまってカーンと冴えかえっていた。私は埃っぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれを眺めていた。
 不意に第二のアイディアが起った。その奇妙なたくらみはむしろ私をぎょっとさせた。--それをそのままにしておいて私は、何喰わぬ顔をして外へ出る。--
 私は変にくすぐったい気持がした。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。
 変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛て来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術棚を中心として大爆発をするのだったらどんなに面白いだろう。
 私はこの想像を熱心に追及した。「そうしたらあの気詰りな丸善も粉葉みじんだろう」そして私は活動写真の看板画が奇体な赴きで街を彩っている京極を下って行った。

 「カーンと冴えかえっていた」状態に至る直前、擬態語や擬声語が増し、不協和音を奏で、そのクライマックスを盛りあげる。これはザ・ビートルズの『ア・ディ・イン・ザ・ライフ』におけるピアノの一叩きのクライマックスに向かう不協和音の上昇を思い起こさせる。『瀬山の話』においては、「見わたすと、その檸檬の単色はガチャガチャした色の諧調を、ひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、輝き渡り、冴えかえっていた」となっており、「カーン」という言葉がないため、「檸檬」は十分に爆発し得ていない印象を与える。「檸檬」は混沌とした生成の世界を「紡錘形の身体の中へ吸収」して、解釈・評価し、「カーン」と陶酔への意欲を発する。

 主人公は都市ゲリラとして振る舞うが、柄谷行人は、『ゲリラと文学』において、ゲリラについて次のように述べている。

 いまわれわれが住む都市は、透明且つ均質であり、機能的にできていて、裏も影もない。建築家の原広司氏によると、ゲリラは、監視された都市空間の中に隠れ、機能的な道具立てをべつなものに変形してしまうものである。ゲリラは都市の空間をべつなふうに読みかえるといってもいい。たとえば、機能的に考えられた道路に対して、迷路のような裏通りが、ゲリラの道である。ゲリラが存在しうるためには、監視し透明にしてしまう眼差が及ばないような、逆に、一つの中心によって組織されてしまった空間を反転し読みかえることを可能にするような、“闇”の部分がなければならない。

 主人公は、確かに、都市を読み替えている。アポロ的光をディオニュソス的闇によって再構築する。その上で、「檸檬」を爆弾として利用する。

 この爆発の状態はオルガスムス的ではなく、「持続する高水準の状態」(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』)である。性を、不幸にも、オルガスムスとして理解しているがゆえに、それを抑圧し、隠蔽する。しかし、性は陶酔状態の感動を創造する。

 それは20年代のスーパースターのベーブ・ルースのホームランを思い起こさせる。一五〇〇グラム、三六インチもあるバットを手に、「彼が打席に立つと、相手チームのバット・ボーイがプレゼントと称して、綺麗な包み紙にリボンまでついた箱を持ってくる。ルースが受け取り、何かと思ってその場で包みを解くと、それはびっくり箱で、なかからゴム人形が飛び出す。そして、場内が笑いに包まれたあと、彼がどでかいホームランを打つ」(『プロ野球大事典』)。

 殺人打線の三番ベーブ・ルースの次を打ち、「鉄の馬」と呼ばれたルー・ゲーリッグによれば、「私がバッターボックスに入っても、スタンドはまだベーブのホームランのざわめきが消えない。いつもそうだった」のだ。ニューヨークのコロンビア大学の教授だったジョン・デューイは、ルースを意識して、『経験としての芸術』において、「人間の経験における芸術の源泉は、野球のプレーヤーのピンと張りつめた優美さが見ている群衆をいかにして感染させるのかということを知る人によって学びとられるであろう」と述べている。

 持続性に乏しいはずの梶井の作品はクライマックスで逆にそれを提示する。それは連鎖の幻影、余韻である。芸術の時間性はたとえ瞬間的転調を示したとしても、刹那的であることはない。「芸術作品の影響は、芸術を創造する状態を、陶酔を、誘発することである。芸術の本質はあくまで、それが生存を完成せしめ、それが完全性と充実を産みだすことにある。芸術は本質的に、生存の肯定、祝福、神化である……ペシミズム的芸術とは何を意味するのか? それは一つの矛盾ではなかろうか?--然り。--ショーペンハウアーは、或る種の芸術作品をペシミズムに奉仕させるとき、誤っている。悲劇は『諦念』を教えるのではない……怖るべき疑わしい事物を描きだすということが、それ自身すでに芸術家のもつ権力や歓喜の本能である。芸術家はそれを恐怖することはないからである……いかなるペシミズム芸術もない……芸術は肯定する」(『権力への意志』八二一)。

 こうしたニーチェの主張は、彼自身の主要な手法がアフォリズムという短型であることからも、強調されよう。芸術は、陶酔を通じて、永遠へ回帰する。「檸檬」は「陶酔」を誘発している。そして、主人公は、陶酔のさらなる持続を可能にせんがために、「奇怪な悪漢」、すなわち爆弾テロを行う愉快犯のように、「檸檬」を仕掛け、気づかれずに出ていく。

I should have quit you,
Long time ago.
Yeah,
Long time ago.
I wouldn't be here, my children,
Down on this killing floor.

I should have listened baby,
To my second mind.
I should have listened baby,
To my second mind.
Every time I go away and leave you darling,
You send me the blues way down the line.

Treat me right baby.
People telling me baby,
Can't be satisfied.
They try to worry me baby,
But they never hurt you in my eyes.
Said people worry,
I can't keep you satisfied.
Let me tell you baby,
You ain't nothing but a two-bit no-good jive.

Went to sleep last night,
Worked as hard as I can.
Bring home my money,
You take my money give it to another man.
I should have quit you baby,
Such a long time ago.
I wouldn't be here with all my troubles,
Down on this killing floor.

Squeeze me baby,
Till the juice runs down my leg.
Squeeze me baby,
Till the juice runs down my leg.
The way you squeeze my lemon,
I'm gonna fall right out of bed.

I'm gonna leave my children down on this killing floor.
(Led Zeppelin “The Lemon Song”)

 この「檸檬」は高村光太郎が『レモン哀歌』で歌った悲しく寂しい「レモン」ではない。梶井にとって「檸檬」は、レッド・ツェッペリンが「おれのレモンを、落ちてゆくまで、しぼってくれ」という歌詞の『レモン・ソング』において「レモン」を、はりつめた緊張感の中、激しく重厚で金属的な音によって、ある世界の破壊として表現したような意味で、武器だ。言ってみれば、それは「チェリー・ボム」(ランナウェイズ)ならぬ、「レモン・ボム」であろう。

Can't stay at home, can't stay in school
Old folks say ya poor little fool
Down the street, I'm the girl next door
I'm the fox you've been waiting for

Hello daddy
Hello mom
I'm your ch ch ch
Ch cherry bomb
Hello world, I'm
Your wild girl
Ch Ch Ch
Ch cherry bomb

Stone age love, and strange sounds too
Come on baby, let me get into you
Bad nights causin' teenage blues
Get out now, 'cause you've got nothin' to lose

Hello daddy
Hello mom
I'm your ch ch ch
Ch cherry bomb
Hello world, I'm
Your wild girl
Ch Ch Ch
Ch cherry bomb

Hey street boy, ya want some style
Your dead end dreams don't make you smile
I'll give you somethin' to live for
Have ya, grab ya till you're sore

Hello daddy
Hello mom
I'm your ch ch ch
Ch cherry bomb
Hello world, I'm
Your wild girl
Ch Ch Ch
Ch cherry bomb
(The Runaways “Cherry Bomb”)

 この爆発が現実世界ではなく、想像的世界において起こっていることに注意しなければならない。犯罪的なるものに対する好奇心から、あるいは自己の問題を解く鍵としてその世界を描く文学者は多いが、梶井はそれに無関心である。この違いは大きい。彼が破壊したいと望むのは「不吉な塊」であって、外的世界ではない。梶井は内と外の区別を超えた「内」を見ている。

 「檸檬」を置いた後の梶井の精神状態は、ドストエフスキーが告白しているような癲癇患者の壮快感と類似している。中井久夫神戸大学教授によると、癲癇患者は色彩に強く反応し、現実が「ガチャガチャ」していれば、それが肌にせまり、発作が起きやすいが、何もない「カーン」とした無葛藤の部屋の中では精神状態が安定する。癲癇患者の葛藤の状態は言わばディスコとかクラブである。梶井の主人公はボードレールの作品と同様にパロディーめいた聖性がある。『檸檬』の主人公が丸善から「活動写真の看板が奇体な赴きで街を彩っている京極を下って行った」ことに注意しよう。梶井の作品はこうした猥雑さの中から高貴なるものと卑俗なるものとの区別を超えた「高貴」たるものである。けれども、破壊は、梶井にとって、あくまでよりよく生き抜くための方法である。

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