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紙と饗宴 ─ポストモダンとニュー・アカデミズム(10)(2004)

10 ポストモダンの消費─ニュー・アカデミズムのテーマによるラフ・スケッチの試み
 消費、すなわち欲望の刺激は個人的だけでなく、社会的・時代的な背景によっても形成される。それがモードを生み出す。モダニズムはまさにモードとして登場している。消費優先はモードを招く。流行から逃れることはいかなるものもできない。しかも、流行は、景気同様、循環する。モードの循環は、今では、臨界状態に達し、決定不能性に至っている。決定的なものは何もない。売られている物はなくてもいいけれど、あってもいい程度にすぎない。

 1980年代、糸井重里が西武百貨店のために考案したコピーの変遷がそれを物語っている。1981年が「不思議、大好き。」、翌年は「おいしい生活。」だったのが、1988年になると、ファッション狂騒曲として「ほしいものが、ほしいわ」になっている。物があふれているのに、欲しいものは何もないという逆説に到達している。欲望は、そのとき、デフレに陥る。欲望のデフレ、すなわち欲望へのユーモアがポストモダン的状況であり、完全に植物化する。広告は、この環境において、商品の宣伝ではなく、新たな生活の提案を主眼にしている。

 森毅は、『ややこしさのモラルのために』において、こうしたポストモダンの政治・経済は、シャルル・フーリエの著作を読めば、理解できると次のように述べている。

 もう三十年も昔に読んだ、フーリエの情念論のことが、このごろ気になっている。そのころはよくわからなかったが、情念の解放を言っているようでじつは抑圧している、時代の空気を考えるヒントになりそうに思う。
 価値観がイデオロギーの形で幻想化すると、それは情念を抑圧する。とくに、その価値観の実質が空洞化していると、それが幻想の形で抑圧性が増える。
 フーリエの言っているのは、ありふれた欲望ではない。その上に三つの情念を設定するのが、昔はよくわからなかったのだが、自分流にこの時代を解釈するのに向いている。時代が違うが、今に読みかえられるのが、古典というもののよさ。

 欲望から政治・経済を考えると、「時代の空気」を掴み損ねる。ポストモダンにおいて、消費を生み出すのはフーリエの三つの情念、すなわち「心がわりの情念」・「裏ぎりの情念」・「ややこしさの情念」である。「道をきめずに『心がわり』をして、ときにまわりの思いを『裏ぎり』ながら、それでもおたがい、楽しく生きるための『ややこしさ』。これが、この時代に適合したモラルのような気がしている。道が決まらず、思ったとおりに進まず、ややこしいけれど」。このモラルの下、家のリフォームが流行し、ユニヴァーザル・デザインが提唱され、建築家ではなく、使う人の視点が最優先される。すべてが等価であるとすれば、欲望は刺激されない。高度消費社会は欲望ではなく、三つの情念に基づいている。「ほしいものが、ほしいわ」が示す多品種少量生産こそがモードを満足させる。「ここには、大きな流れとして、産業社会から情報社会への移行がある。今だって、物を作るのが主流だろうが、付加価値部分が大きくなって、規格品大量生産よりコンセプトが多様化して、デザインなどのウェートが増えてきている。本来の情報産業は、そうした変化の最先端を示しているとも考えられる。つまり、システム的なものに、ネットワーク的なものを加味しようとしているのではないか」(森毅『社会主義から社交主義へ』)。その結果、アクセサリーのような小さな自己表現が主流になり、世界はより複雑系を体現する。

 『「J回帰」の行方』の中で「二〇〇〇年になって振り返ってみると、一九九〇年代の日本文化を『J回帰』という言葉で括り、特徴付けられるのではないかと思う。J?JAPANのJである」と浅田彰が言う90年代に登場した文学はベーシックな文学へと向かっている。先人を踏襲しつつ、再構築するというポストモダン文学の手法を生かして、オルタナティブな志向を示す作品もあるが、高価で奇抜なコム・デ・ギャルソンに代わり安く何の変哲もないユニクロが時代を代表するように、多くは方法論で行きづまり、不十分な引用が目立ち、ゴシップ化したり、かつてのカテゴリーではサブカルチャーに属していた領域をとりこんだり、クラシックと化した日本近代文学を切り詰めて融合したりしている。「ニューアカの後どんどん若い世代が出てくるかと思ったら、案外出てこないんです。若い子はああいう出方を真似しようとするけれども、もう一つパッと出てこない。もっとも真似をして出られるものでもないですけれども。ある意味で、彼らが出てきたということが、次の世代の抑圧になっていないかということをいくらか気にする人もいます。たしかに、そういうことはあり得るわけです。だけど、これはしょうがないんです。それこそ小説の世界でも、美術の世界でも、ある層というのは固まって出ます。ところが、その後を追ったってやっぱりしょうがないんです。ある一つの流れが出てくると、次の世代の抑圧になるものなんです」(森毅『ゆきあたりばったり文学談義』)。それには、オルタナティブの意識を強く持つほかない。

 90年代に始まった世界的な状況において、インターネットの普及に伴い、誰もがそこにアクセスして、情報を検索し、獲得することができるようになっている。こうしたポストモダンの下、引用の対象も拡大する。表層的なものにとどまらず、その社会的・歴史的・文化的背景も引用し、クロスオーバーさせることが作品作成に求められるようになる。表層的なものの引用に終始し、たんに戯れるのは後退である。それを試みるのであれば、タランティーノやバートンのように、そこに敬意をこめ、愉快にしなければならない。オタク文化には女性とのおしゃべりが欠けている。以前にも増して、おしゃべりをする範囲を広げる必要がある。「道が決まらず、思ったとおりに進まず、ややこしいけれど」。

 『世界がもし100人の村だったら』が示しているように、今や個人ではなく、集団的匿名として作品を作成しなければならない。マクルーハンの警告通り、グローバリズムとローカリズムのクロスオーバーが90年代はアンバランスだったが、2000年代には、その共生も模索されるだろう。「道が決まらず、思ったとおりに進まず、ややこしいけれど」。ポストモダン下では、老若男女、国籍、宗教、立場、居住地、ジェンダー、セクシャリティ、障害、病気は問われない。9・11以降、その倫理が求められている。誰からともなく始まり、在日コリアンのパンク・ミュージシャンとベイルートのアルメニア人小学生少女、メキシコ在住の老バスク人マルクス主義者、コンゴで人道援助の活動をするレズビアンのスコットランド人、バンコクのクラブで働くナイジェリア出身のニュー・ハーフ、ケープタウンの知的障害者、イヌイットの生物学専攻の大学院生、マレーシアのエコロジスト、スーダンの反政府ゲリラ、トロントに移り住んだパルーシーの女性経済学者、チューリッヒの金庫破り、パキスタンのベテランのホッケー選手、マウマウの娘、パームビーチに引退した民主党の元上院議員、ブタペストに運送中のトルコ人のトラック運転手、ウズベキスタンの映画監督、ロシア移民でエルサレムに住むゲイのコンピュータ・プログラマー、タロイモ栽培に従事するトンガの農民、アイスランドのDJ、ニューヨークのチベット人僧侶、チリのイタリア系女性弁護士、メルボルンの筋萎縮性側索硬化症の患者、マサイステップのマサイキリン、西表島のガジュマル、DNAコンピュータとが共同で刺激的なおしゃべりの作品が形成される。Eメールや携帯電話で連絡を取り合ってできた作品は、さまざまな社会的・歴史的・文化的・個人的背景によって構成され、多種多様な言語が入り混じり、CGや動画が盛りこまれ、世界中で手にすることができる。さらに、参加者が増えて、文化触変が続き、変化を重ね、拡散していく。それが植物化するポストモダンの生成である。

  しかし、90年代以降の世界を「ポストモダン」の名称で把握することには無理がある。それぞれの分野・領域が相互浸透している。決定不能性はより進み、クロスオーバーでさえない。フェリックス・ガタリはカオスとコスモス、浸透の三つの意味を組み合わせた「カオスモーズ(Chaosmos)」を提唱している。多元主義あるいは多文化主義という思考さえこのカオスモーズにさらされている。ポストモダンはベルリンの壁に代表される壁の時代における相対主義的な動向であるが、90年代から膜の時代へ突入している。壁は消え、半透膜が世界各地にはりめぐらされている。あるものは通し、別のものは通過させず、そこに浸透圧が生じる。現代社会はこのように開かれている。ポストモダンに代わって、むしろ、ガタリに倣い、「カオスモダン(Chaosmodern)」を使うべきだろう。「情報化社会というのは、過去の情報がどんどんデータベースに蓄積されていくんだけど、その結果、逆説的なことには、現在の輝きだけで評価されるようになる。もう、過去のことなんて、どうだっていいんですよ」(森毅『過去は白紙』)。

“I know who I am. No one else knows who I am. Does it change the fact of who I am what anyone says about it? If I was a giraffe, and someone said I was a snake, I'd think, no, actually I'm a giraffe”.
(Richard Gere “The Guardian” June. 2002)
〈了〉

プレモダン
モダン
ポストモダン
神の権威
神の死
神の死の決定不能性
アルブル(ツリー)/ラディセル
クラインの壺
リゾーム
計画/放任
ギャンブル
遊戯
人間
動物
植物
存在
運動
現象
デカルト/カント
パスカル/キルケゴール
ニーチェ/フッサール
ワーグナー/ヘーゲル
シェーンベルク/アドルノ
ジョン・ケージ/マクルーハン

不換紙幣
クレジット
ルソー/モンテスキュー
ジョン・ロー
シャルル・フーリエ
ハイエク/レーニン
ケインズ
モーツアルト/ルノアール
カザルス/ピカソ
グールド/ウォーホル
マジメ/シリアス
イロニー
ユーモア/ポップ
ラクダ
ライオン
幼な子
決定論
確率論
決定論的非周期性
トータリティ
インフィニティ
アトラクター
リアル
イマジナル
ヴァーチャル
ヒエラルキー
アナーキー
カオス
主人と奴隷
インディペンデント
パラサイト
権威主義
ニヒリズム
商業主義
定住
競争
逃走
メジャー/セントラル
マイナー/マージナル
フラクタル
固体
気体
液体

雑誌
インターネット
ドメスティック
ワイルド
イージー
ウェット
ドライ
ドラスティック
答え
問い
アルゴリズム
高精細度のメディア
低精細度のメディア
ホット
クール
郵便/ラジオ
電話
活字
話し言葉
写真
マンガ
映画
テレビ
講演
セミナー
システム
ネットワーク
エネルギー
エントロピー
ペーパー
シンポジウム」
ハード
ソフト
Visible
Invisible
内部/外部
地平線
一/多
ゆらぎ
線形
非線形
平衡
非平衡
主観/客観
間主観
自己/他者
集団的匿名
微積分
複雑系
弁証法/二律背反
永遠回帰
生産/蓄積
流通/消費
シンタックス
モザイク
〈了〉
参照文献
浅田彰、『構造と力』、勁草書房、1983年
同、『逃走論』、ちくま文庫、1986年
同、『ヘルメスの音楽』、ちくま学芸文庫、1992念
東浩紀、『動物化するポストモダン』、講談社現代新書、2001念
今村仁司編、『現代思想を読む事典』、講談社現代新書、1988念
小城勝相『生命にとって酸素とは何か』、講談社ブルーバックス、2002年
鈴木英治、『植物は5000年も生きられるのか』、講談社ブルーバックス、2002年
総理をめざす11人の会、『オレたちにやらせろ!―若者よ、君らは僕たちといっしょに汗を流せるか』、ゴマブックス、1996年
竹田青嗣、『現象学入門』、NHKブックス、1989年
同、『現代思想の冒険』、ちくま学芸文庫、1992年
村上龍=坂本龍一、『EV.Cafe 超進化論』、講談社文庫、1989年
森毅、『数学の歴史』、講談社学術文庫、1988年
同、『佐保利流数学のすすめ』、ちくま文庫、1992年
同、『数学と人間の風景』、NHKライブラリー、1994年
同、『ゆきあたりばったり文学談義』、ハルキ文庫、1997年
同、『ぼけとはモダニズムのこっちゃ』、青土社、1999年
同、『二番が一番』、小学館文庫、1999年
同、『ええかげん社交術』、角川oneテーマ21、2000年
同、『21世紀の歩き方』、青土社、2002年
淀川長治、『淀川長治の映画塾』、講談社文庫、1995年
フェリックス・ガタリ、『カオスモーズ 新装版』、富永寛史他訳、河出書房新社、2017年
W・テレんス・ゴードン、『マクルーハン』、宮澤淳一訳、ちくま学芸文庫、2001年
フリードリヒ・ニーチェ、『ニーチェ全集』9・10、ちくま学芸文庫、1993年
DVD『エンカルタ総合大百科』、マイクロソフト社、2001年

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