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天皇・三島由紀夫・卓越主義(7)(2022)

第7章 卓越主義とテロリズム

「私は右だろうが左だろうが暴力に反対したことなんか一度もない」。

 三島は、討論会の中で、このように言っている。彼は社会変革のための暴力を肯定する。ただ、それは、学生運動の中に見られる主体回復の過激主義、すなわち被抑圧者の対抗手段とは異なる。

 ジョン・ロックによれば、近代において政府は社会のために働かなければならない。政府は社会から「信託(Trustt)」されている。それを裏切れば、市民は政府に対して革命を起こす権利を行使する。「信託」だから裏切りの可能性があり、ロックは権力暴走の抑制として革命権を市民に認める。初期マルクスはこれを労働者階級の主体回復に変換している。資本主義体制がそうさせているのであり、それを打倒する必要がある。

 一方、三島は卓越主義者であるので、彼が認めるのは卓越性を表象する行動である。テロリズムが正当化されるためには、徳の実践として卓越していなければならない。この徳は三島において「憂国」である。

 三島は「愛国」ではなく、「憂国」を好む。「憂国」には国の将来を案ずるというニュアンスがある。三島は2・26事件を題材にした小説にこの語をタイトルにしている。他方、「愛国」は古代中国より使われ、日本では『日本書紀』の中に見出せるが、それは「故郷を懐かしむ」という意味である。むしろ、今日の「愛国」は英語の"patriotism"の訳語に相当する。三島もその用法に則った上で、鈴木邦男の『愛国者は信用できるか』によると、「愛国心ー官製のいやな言葉」と見なしている。

 「愛国心」は、本来、共和主義の概念である。共和主義は共和政ローマに由来し、権力分立の思想である。権力が暴走・堕落しないために、分立させ相互に牽制指せると共に、競争させてダイナミズムを生み出してよりよい政治を実現する。共和政ローマにおいてそれは貴族=元老院と平民=民会による権力分立である。しかし、対立が激化して国益のような共通善を見失わないために、一致団結の「愛国心」が必要となる。

 アメリカの建国原理はシャルル・ド・モンテスキューの近代的共和主義であり、愛国心の強調はこれに基づいている。他方、近代日本の建国原理は立憲主義である。米国と異なっているので、政府が真似て愛国心を取り入れる論拠はない。三島が「愛国心」を「官製のいやな言葉」と拒絶するのは、この意味でも、当然である。

 三島は卓越主義者であるから、卓越した行動の徳として「愛国」ではなく、「憂国」を認める。その際の彼の思考経路は近代的である。政府は「愛国」を国民に強要しても、「憂国」を望まない。「愛国」は現在の政府にとっての国益のための奉仕の方便にしばしば利用される。それは無批判的な国家讃美である。一方、「憂国」は主体的である。個人が歴史的な伝統を理解して民族のの自覚を認識して、現実が理想から離れる行く末を憂う心情だ。それに基づく行動は民族の過去・現在・未来の総体に殉ずるものである。「憂国」は個人が意識を拡大していくことで獲得するもので、「官製」」、すなわち国家があらかじめ用意しているものではない。

 前近代は共同体が個人に優先している。共同体の規範に従う義務の対価として個人に権利が付与される。一方、近代は個人が集まって社会を形成しているとする。社会がうまく機能するために、個人が権利の一部を国家に信託する。政府は権利の対価として個人に義務を負う。三島は日本人が民族の共同体の中にいると考えるが、それはあくまで個人の自覚によって獲得する認識である。個人から出発して共同体を発見する過程は近代主義的だ。

 「憂国」は徳であるので、現実を理想につなぐ。三島にとってのその理想は天皇が「菊」と「刀」を兼ね備えた民族の共同体である。堕落した現実をこの理想に向かって「憂国」の卓越性を持った行動は、暴力であっても、尊い。テロリズムはこうして正当化される。

 しかし、近代は暴力を正当化させないために、政教分離を最も基礎的な原理にしている。価値観の選択が個人に委ねられているので、近代の道徳哲学に挑戦的な三島のそれが社会で広く共有されることはない。

 政教分離したものの、確かに、現実的には近代の政治も道徳性と無縁ではない。政治にはどのような社会を目指すのかというイデオロギーが不可欠である。これも価値観を含まざるを得ない。ただ、近代においてその共有はコミュニケーションを通じて公共性として形成するものである。暴力は他者を主体ではなく、客体として扱っているので、容認されえない。「言葉は言葉を呼んで、翼をもってこの部屋の中を飛び回ったんです」(三島由紀夫)。

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