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天皇・三島由紀夫・卓越主義(2)(2022)

第2章 三島由紀夫と高松宮
 三島由紀夫の天皇制についての考えは『文化防衛論』(1969)に示されている。民族のアイデンティティを主張する論考は、連続性の協調から、しばしば文化に着目する。三島のこの見解も同様である。

 三島は、ルース・ベネディクトの『菊と刀』(1946)を踏まえ、日本の文化は「菊」=美と「刀」=武の総体で、いずれかが欠けてもならず、それを具現してきたのは「文化概念」としての天皇であると言う。けれども、戦時下において「刀」だけが強調されたことと逆に、戦後は「菊」ばかりが文化であると偏った認識が社会に広まっている。それを端的に示すのが日本国憲法で、天皇や国家から「刀」を削ぎ落している。三島はこうした状況が文化の衰退であり、防衛しなければならないと訴える。その際、彼は文化防衛のためのテロリズムを肯定する。

 三島のこの意見は思いつと思いこみに満ちており、批判することはたやすい。これは彼の天皇制についての考えとしてのみ理解すべきで、それ以上の意義を持たない。

 付け加えておくと、『菊と刀』は戦時下の日本人の認知行動をうまく説明できるとして一時期非常に読まれている。しかし、こうした文化論はすべからく直観的に納得を得られやすいが、実証性がなく、今日では社会心理学の研究によりこの主張は否定されている。文化論は概して自説を主張するための隠れ蓑である。

 三島の見解を考察する際に参考になるのが高松宮による天皇の戦争責任論である。高松宮宜仁親王は昭和天皇の弟にあたる。彼は、敗戦直後、天皇に宮城、すなわち皇居から出て京都に戻ることを提言している。皇居は元々江戸城であり、それは武士の棟梁の住居である。天皇はあくまで公家なので、そこから出て京都に帰るべきだ。高松宮はそう説き、宮中でもかなり真剣に論議されている。

 高松宮の主張には一理ある。1221年(承久3年)に起きた承久の乱で天皇の武の面は失われている。この時、後鳥羽上皇は鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたものの、敗れてしまう。従来は朝廷から認められた正統性のある軍が賊を倒すものである。ところが、この戦乱では朝敵が錦の御旗に勝利する。天皇は権威であっても、権力ではもはやない。復古主義的な建武の親政も短期間の内に失敗している。ただ、こうした天皇の地位を理論によって基礎づけることなく、曖昧にしたため、江戸時代に大政奉還の運動が沸き起こると、武家政権は比較的あっさりと崩れている。

 なお、錦の御旗は、承久の乱の時、後鳥羽上皇より官軍の大将に賜わったのが最初とされる。赤地の錦に、金銀を以て日月を刺繍し、または描いたデザインの旗である。承久の乱以降、叛徒征討の時には必ず官軍の大将に与えられたが、権力として藪らた戦乱に起源を持つように、天皇が形式的権威にすぎないことを示すものでもある。

 高松宮が天皇の伝統を見出すのは「菊」であって、明治以後の「刀」は本来的ではない。ところが、三島由紀夫は「刀」も備えていることが天皇の伝統と主張する。三島が認める天皇像は大日本帝国憲法のものだ。『文化防衛論』はそれを正当化する論考である。

 三島は、公開討論会においても、同様の考えを次のように述べている。

「私のいう天皇というものは現実の天皇つまり統治的天皇と、文化的、詩的、神話的天皇とが、一つの人間でダブルイメージを持ち、二重構造をもって存在している」。

 しかし、この討論会が興味深いのは三島が自分自身にとっての天皇について語っていることである。彼が天皇主義者たる動機であり、それは『文化防衛論』の前提だ。


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