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『1984年』、あるいは全体主義と私(2017)

『1984年』、あるいは全体主義と私
Saven Satow
Jan. 26, 2017

“Big Brother is watching you”.
George Orwell “1984”

 2017年1月23日、米大統領顧問ケリーアン・コンウェイ(Kellyanne Conway)は、ドナルド・トランプ大統領の就任式での観衆の規模をめぐるホワイトハウスの真偽をCNNに問われた際、「オルタナティブ・ファクト(Alternative facts)」と答えています。これはジョージ・オーウェルの『1984年』からの引用です。この発言がきっかけで同書がアメリカで売れています。1月25日、米アマゾンでランキング1位に躍り出ているほどです。

 『1984年』はオーウェルが1948年に発表した反ユートピア小説です。全体主義の社会を風刺しています。こうしたディスㇳピア作品は、オルダス・ハックスレーの『すばらしい新世界』など他にもあります。ただ、『1984年』はその中でも題名や内容が最も知られていると言っていいでしょう。

 『1984年』が全体主義を語る際に、しばしば引き合いに出されるのは、その体制が人々に私の領域の所有を許さないことを描いているからです。全体主義が人々を監視し、統制するのは内面の自由を奪い、自らの政治的イデオロギーに染めぬこうとします。この体制の社会はそれを共有する構成員によって形成されているのです。

 『1984年』のあらすじは次の通りです。

 1950年代の核戦争により、1984年時点で世界はオセアニア・ユーラシア・イースタシアの三国によって支配されています。周辺地域で紛争が起きるものの、いずれも三すくみの現状維持を黙認しています。主人公ウィンストン・スミスはオセアニアのロンドンに住んでいます。物資不足ですが、デモもありません。「ビッグ・ブラザー」という独裁者が支配する全体主義体制だからです。

 一党独裁の同国では当局がテレスクリーンや盗聴マイクによって人々を管理・統制しています。オセアニアでは正統思想のイングソックの思想以外を信じることが許されません。また、言語も、従来のオールドスピークに代わり、語彙や統語法など改変したニュースピークの使用が強制されています。過去の文学のニュースピークへの翻訳作業も進められ、2050年に完了する予定です。他にも結婚など多くの物事が国家管理された社会です。

 ウィンストンは真理省に勤務し、歴史記録の改竄を仕事にしています。記録が頻繁に編集されるため、自分の記憶さえも確かかどうかあやふやになっています。ある日、ウィンストンは古道具でノートを購入し、自らの考えを書き、整理する作業を始めます。日記の記述と言ってもいいでしょう。これはオセアニアでは「思想犯罪」に当たります。

 そんなウィンストンは、仕事中に、抹殺されたはずの3人に関する記事の載った新聞を見つけ、体制への不信感を強めます。彼は「憎悪週間」の際に同僚のジュリアと出会い、文通を始め、恋仲になります。二人は古物のあるチヤリントンという老人の家で時を過ごすようになります。

 その後、高級官僚オブライエンからエマニュエル・ゴールドスタインが書いたとされる書物を渡され、体制の裏側を知ります。ゴールドスタインはビッグ・ブラザーと並ぶ指導者でしたが、反体制運動に身を投じた人物です。

 しかし、ウィンストンは密告され、ジュリアと共に思想警察に逮捕されます。彼は愛憎省で尋問・拷問を受け、自己批判します。銃殺される日までウィンストンは心から党を愛していくのです。

 本編はここまでです。その後に『ニュースピークの諸原理』という作者不詳の解説がつけられています。これは過去形が用いられたオールドスピークで書かれています。それにより、1984年のはるか後に、オセアニアの全体主義体制が崩壊したことを暗示しています。

 このようにプロットを確認しただけでも、『1984年』が全体主義の特徴を的確に描いていることがわかります。

 当局が人々に対する監視・統制を正当化する際、戦時を利用します。国家が脅威にさらされているとして政府はすべてを安全保障に翻訳して権力を集中します。戦争中だから敵がスパイを潜入させて情報を盗み出したり、国内を混乱させたりしようとしているなどは口実の一例です。オセアニアの政府は戦時体制を利用して苛烈な監視社会を人々に強いています。当局は現体制を合理化するために、三すくみが続いてくれることを望んでいるわけです。

 政治体制は自由の制限によって民主主義・権威主義・全体主義の三つに大別されます。この内、権威主義と全体主義が独裁体制に属します。両者は政治的無関心が許されているか否かで区別されます。権威主義では政治的無関心が許容されますが、全体主義の当局はそれを認めません。

 前近代において政治の目的はよく生きること、すなわち徳の実践です。政治と道徳が一体化しています。けれども、自らの道徳の正しさのために殺し合った宗教戦争の経験を反省し、近代は政教分離を基本原理とします。政治は公の領域、信仰は私の領域に分け、両者の相互干渉を禁じます。その上で、近代の政治の目的は平和の実現とされます。平和でなければ、徳の実践も叶いません。

 公私の分離は価値観の選択を個人に委ねたことを意味します。社会は複数の個人によって成り立っています。共同体に個人が属するのではなく、近代は個人が集まって社会を形成すると捉えます。ですから、近代社会では価値観が多様化します。思想や信条、表現などの自由は、その社会の成り立ち上、権利として保障されます。共同体を優先して義務を強調する前近代と違い、近代は権利を拡充していきます。

 しかし、全体主義は、恐怖を扇動し、平和の実現のためにと権力を強化することを押し進めます。常に脅威にさらされているとして平時も準戦時と位置ずけます。そのため、公の領域を膨張させ、私を極限にまで縮小させます。全体主義は政府の提示する政治的イデオロギーの共有を人々に強制します。一切は政治的に判断されます。政治的無関心はこの共有の拒否に当たりますから、反体制分子と見なされてしまいます。

 政治的イデオロギーを全員が共有しているのですから、権力は特殊意思ではなく、一般意思を具現しています。人民の意思が権力ですので、制限する必要はありません。権力は常に正しいのです。全体主義は権力の暴走を抑制する三権分立を認めません。

 もっとも、政治的イデオロギーによって判断するとしても、状況が変化します。個別的・具体的な判断・行動はイデオロギーに基づく解釈を前提にします。けれども、状況の変化に伴い、過去との整合性がうまく取り結べないことも生じてしまいます。その際、現在の判断・行動を合理化するために、過去を改竄して不協和を解消します。権力は常に正しいのですから、間違ったとは言えません。全体主義は歴史を頻繁に書き換えざるを得ないのです。

 ウィンストンのノートを書く行為が「思想犯罪」に当たる理由は私の領域の所有だからです。それは政治的イデオロギーの拒否ですから、当局には反体制活動と認識されます。ウィンストンは考えを記録することで体制に抵抗を企てていることになります。

 この記録の際に、言語の問題が顕在化します。当局は内面を支配するために、人々に言語統制を科しています。正統思想に基づいて語彙や表現などを制約したニュースピークを使えば、それ以外の考えが浮かばなくなると当局は認識しています。御用言語学者サイムズは国内がこの言語だけになれば「思想犯罪」も一掃されると言っています。言語を支配すれば、私の領域も消失できるというわけです。

 オーウェルは『1984年』以前に言語と全体主義の関係を描いています。『動物農場』(1946)では、単純な構文が複雑化することによって当初の精神が歪められる事態を展開しています。ただ、これは全体主義と言うよりも、官僚主義の特徴です。

 それに対し、『1984年』は言語統制を全体主義の内面の支配と関連して扱っています。こちらの方が全体主義の特徴をつかんでいます。語彙の制限は戦時下の日本の歴史からも納得できます。1940年頃から当局は米英を敵性国として英語を敵性語と見なし、日本語による言い換えを指導しています。とくに有名なのが野球用語の日本語化で、ストライクを「よし」やボールを「だめ」、バッテリーを「対打惰機関」など本来の意味も無視して強引に進められています。

 結局、ウィンストンは密告されて当局に逮捕されます。拷問を受け、党を心から愛するようになってしまいます。それは私の領域が消えたことを意味します。私を認めないし、それを見つけたら粛清するのが全体主義です。

 けれども、オーウェルはこうした全体主義が永続することを支持していません。それはニュースピークに代わってオールドスピークが復活したことで示されます。このオールドスピークは歴史的に集合知として蓄積されてきた言語です。と同時に、公のニュースピークに対して、私の領域を確保するための言語です。全体主義は無名の人々による歴史の発掘と内面の所有を通じて崩壊すると『1984年』は物語っています。

 コンウェイ発言がきっかけとは言え、ドナルド・トランプ大統領のこれまでの言動が人々に『1984年』に向かわせているのでしょう。彼は就任演説を始め事実の改竄を頻繁に行っています。2017年のアメリカは1984年のオセアニアではないのか、ドナルド・トランプはビッグ・ブラザーではないのかと疑わずにはいられません。もっとも、それはアメリカだけの話ではありません。日本を含む世界の各地にその状況が現われています。『1984年』は今を考えるための歴史なのです。
〈了〉
参照文献
George Orwell, “1984”, 1948
http://www.george-orwell.org/1984


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