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ドラゴンアイの季節(5)(2020)

9 空蝉
 「空蝉」は蝉の抜け殻のことで、晩夏を指す。俳句に限らず、古来より文学において取り扱われている。「空蝉」は『源氏物語』の巻名や登場人物が知られ、その第3帖に「空蝉の身をかへてける木のもとになほ人がらのなつかしきかな」と「空蝉の羽におく露の木がくれてしのびしのびにぬるる袖かな」の和歌が収められている。この語は伝統的に命のはかなさを示す単語として用いられ、それを織りこんだ名句は多く、次のようなものがよく知られている。

梢よりあだに落けり蝉のから
(松尾芭蕉)

手に置けば空蝉風にとびにけり
(高浜虚子)

ぬけがらの君うつせみのうつゝなや 
(正岡子規)

拾ひたる空蝉指にすがりつく
(橋本多佳子)

葭の風空蝉水へ落ちにける
(水原秋桜子)

女の手に空蝉くだけゆきにけり
(西東三鬼)

空蝉も拡大鏡も子に大事
(中村汀女)

空蝉を風の中にていつくしむ
(山口誓子(や)

空蝉をとらんと落す泉かな
(飯田蛇笏)

 ただ、少々異なる用法もある。

 各地に「西行戻」という伝承が伝わっている。それは、西行が目的地に向かう途中で、地元の子どもたちにからかわれ、諦めて戻っていくというエピソードである。松島の「西行戻しの松」や秩父の「西行戻り橋」、日光の「西行戻り石」、甲駿街道の「西行峠」などがよく知られている。この変形として安芸に子どもではなく老婆が登場する「西行戻」が伝わって要る。

 西行が宮島の山中を歩んでいると、老婆に出会う。彼は彼女に道を尋ね、「空蝉のもぬけの殻に こと問えば 山路のさえも教えざりけり」と歌を詠む。これは「蝉の抜け殻に尋ねても、山道も教えられまいなな」という意味である。それを耳にした老婆は「空蝉か」と答、西行は来た道を戻っていったと言う。

 このエピソードはおそらく後世に作られたものだろう。社会の上中下層が交流するのは室町時代以降である。西行は俗名を佐藤経清と言い、藤原秀郷の嫡流の佐藤氏の嫡男として118年に生まれている。彼は武家の棟梁として将来を嘱望されていたが、23歳の時に出家する。壇ノ浦で平家を滅ぼした源頼朝は還暦を過ぎた西行に弓馬について尋ねている。頼朝は武家の棟梁に必要な儀礼を知らなかったからである。現在も続く流鏑馬の儀式はこの時の伝授に由来している。言語上であっても、当時、頼朝でさえ教えを乞うた西行に対して秩序転倒はあり得ない。放浪の天才歌人西行がその地を訪れなかった理由づけと思われる。坂の上田村麻呂の八幡平来訪と逆のケースである。

 天才が庶民にユーモアで一本取られる。こういった笑い話は日本に限ったものではない。古代ギリシアのタレスが空を見上げて天文の観察に夢中になるあまり、溝に落ちてしまう。それを見た少女、もしくは老婆は「学者というものは遠い星のことはわかっても自分の足元のことはわからないのか」と笑われたと言う。

10 ワライゼミ
 このように詩歌においてセミは夏の暑さや静寂の強調、無常観などの表現の際に言及され、作品も数多い。ところが、昔ばなしでは、民衆にとってなじみ深い生き物であるにもかかわらず、セミがあまり扱われていない。

 『山形新聞』がサイトにおいて「山形の民話」のコーナーを開設している。その中で「蝉の鳴き声」と言う次のような物語を滝口国也東根市民話の会会長が紹介している。

 昔(むがし)、昔(むがし)あったけど。 
 お釈迦(しゃが)様は、あらゆる生物(いぎもの)に寿命を授げでけだけど。 
 そうしたれば、一番うまぐなえ寿命授がったのは、蝉だけど。 
 蝉は7年間幼虫となって土つぢの中(なが)さいで、世間に出できては1週間の命(いのぢ)しかないなだど。 
 蝉は、「こだな、つまらないごど誰決めでけだなだ」。といって、お釈迦(しゃが)様に対する呪(のろ)いの声だど。 
 蝉のうぢでも、みんみん蝉は命(いのぢ)が長い方ださげ、「ンーマグナエー、ンーマグナエー」て鳴くなだど。 
 あぶら蝉は、みんみん蝉より命(いのぢ)が短いさげ、鳴ぎ方も早ぐなて、「ンーマグナエー、ンーマグナエー、ンーマグナエー」て鳴いでいるのだど。 
 ところが、麦蝉はさらに短い命(いのぢ)だそうだ。 
 それで鳴き方も、頭にきて、「シーシーシー」と鳴いでいんなだど。ドンビン

 しかし、八幡平のエゾハルゼミ、すなわちワライゼミにそうしたルサンチマンはない。その大いなる笑いは寿命の短さを含め一切を肯定する。呪いが受動的ニヒリズムだとすれば、笑いは能動的ニヒリズムである。死は再生の契機であるとワライゼミは哄笑する。造化の営みの中でのこの循環を是認して大いに笑う。セミの寿命は7年とも13年とも17年とも言われる。幼虫の時期は詳しくわかっていないが、成虫になってから1週間程度しか生きられない。この1週間はドラゴンアイの季節の長さである。エゾハルゼミは竜を冬眠から目覚めさせるために一生を過ごす。ドラゴンアイの季節に奉仕すること、すなわち冬眠の竜を目覚めさせることに己の寿命が費やされることを然りとする。だからこそ、ルサンチマンを抱かぬ強者であるからこそ、ワライゼミは空間を支配し得る。

 先に触れた「空蝉」もワライゼミでは無常を意味しない。長い幼虫の段階から短い成虫の段階へと変わる時、蝉は抜け殻を残す。それは忍耐から自由への変身である。受動的な死への定めではなく、能動的な生のエネルギーの解放だ。地中に無言で絶えることから地上で大いに笑うことへの発展である。

 それは、フリードリヒ・ニーチェが『ツァラトゥストラはかく語りき』において次のように示した精神が遂げる「三段の変化」である。

 わたしはあなたがたに、精神の三段の変化について語ろう。どのようにして精神が駱駝となるのか、駱駝が獅子となるのか、そして最後に獅子が幼な子になるのか、ということ。
 精神にとって多くの重いものがある。畏敬の念をそなえた、たくましく、辛抱づよい精神にとっては、多くの重いものがある。その精神のたくましさが、重いものを、もっとも重いものをと求めるのである。
 どういうものが重いものなのか? と辛抱づよい精神はたずねる。そして駱駝のようにひざを折り、たくさんの荷物を積んでもらおうとする。どういうものがもっとも重いものなのか、古い時代の英雄たちよ? と辛抱づよい精神はたずねる。わたしもそれを背負い、自分の強さを感じてよろこびたい。
 わが兄弟たちよ! なんのために精神において獅子が必要なのであろうか? 重荷を背負い、あまんじ畏敬する動物では、どうして十分でないのであろうか?
 新しい価値を創造する、--それは獅子にもやはりできない。しかし新しい創造のための自由を手にいれること--これは獅子の力でなければできない。
 自由を手にいれ、なすべしという義務にさえ、神聖な否定をあえてすること、わが兄弟たちよ、このためには獅子が必要なのだ。
 新しい価値を築くための権利を獲得すること--これは辛抱づよい、畏敬をむねとする精神にとっては、思いもよらぬ恐ろしい行為である。まことに、それはかれには強奪にもひとしく、それならば強奪を常とする猛獣のすることだ。
 精神はかつては「汝なすべし」を自分の最も神聖なものとして愛した。いま精神はこの最も神聖なものも、妄想と恣意の産物にすぎぬと見ざるをえない。こうしてかれはその愛していたものからの自由を奪取するにいたる。この奪取のために獅子が必要なのである。
 しかし、わが兄弟たちよ、答えてごらん。獅子でさえできないことが、どうして幼な子にできるのだろうか? どうして奪取する獅子が、さらに幼な子にならなければならないのだろうか?
 幼な子は無垢である。忘却である。そして一つの新しいはじまりである。ひとつの遊戯である。ひとつの自力で回転する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。
 そうだ、創造の遊戯のためには、わが兄弟たちよ、聖なる肯定が必要なのだ。ここに精神は自分の意志を意志する。世界を失っていた者は自分の世界を獲得する。

 「駱駝」は「多くの重いもの」、すなわち思想上の重荷を負い、それに「辛抱強い」精神でもって耐え、そのことによって自らの「強さ」を感じるものである。「孤独の極みの砂漠」の中、第二の変化が生じ、「駱駝」から「獅子」へと精神は移行する。「獅子」は「自由」な精神である。それは自分の背負っていた重荷がいかなるものであるかを解明・認識し、この「巨大な龍」と闘うようになる。

 しかし、「最も神聖なものも、妄想と恣意の産物にすぎぬ」ことを認識する「獅子」は「新しい価値を築くための権利を獲得する」ことはできても、それを創造することは不可能である。「新しい価値」を創出するためには、「獅子」から「幼な子」へと精神はさらに第三段目の変化をする必要がある。「幼な子」は「無垢」と「忘却」の力を持っている。その力によって「幼な子」は「然り」という「聖なる」言葉を持つに至る。「創造の遊戯」のためには、「聖なる肯定」、すなわち「然り」がなければならず、その肯定によって「自分の意志を意志する」とき、「世界を失っていた者は自分の世界を獲得する」。

 「幼な子」は生がどれだけ生き難いものとして現われても、にもかかわらず、過ぎ去った一切のことを「忘却」して、つねに現にある瞬間を最大限に生きようとする「無垢」に立ち返る力を持っている。「幼な子」になるとは、この「無垢」の力に立ち返ることである。「獅子」や「駱駝」はまだ反動的な評価の圏内にいるが、反動的な力を克服している「幼な子」はよいことを求め、わるいことは「忘却」する。「幼な子」は他人にとってよい子ではなく、自分にとってよい子になろうとする。ただたんに深く、または広く物事を認識する精神の力よりも、「生」に対する「聖なる肯定」によって「新しい価値」を創造することこそが必要である。

 ただし、ワライゼミは「巨大な龍」と闘うのではない。目覚めさせるのだ。ワライゼミは「駱駝」から「獅子」へと発展する。それは自由なる精神である。しかし、そこから「幼な子」へ発展を遂げる。デカダンスを積極的に受け入れ能動的に自らの運命を引き受ける。それゆえ、大いに笑う。すべてを「然り」と肯定して哄笑する時、「巨大な龍」が目覚める。ワライゼミにおいて季語の価値は転倒される。「空蝉」はこの世のはっかなさの無常ではなく、エネルギッシュな生の自由である。

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