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フロー化するメディア(2012)

フロー化するメディア
Saven Satow
Jun. 29, 2012

「事実上、『産業革命』ではなく『速度体制の革命』が、民主主義ではなく速度体制が、戦略ではなく速度術が存在したのだ」。
ポール・ヴィリリオ『速度と政治』

 近代においてメディアはフロー化している。近年、その速度は急激に増大し、拡散し続けている。それについていくために、誰もが駆けなければならない。でも、「もたもたする奴は置いていくぞ!」と怒鳴る者はいない。走りながら考えざるを得ない。けれども、そもそもなぜ疾走しているのかという問いには、今の自分を相対化しなければならない。しかし、足の動きを緩めるわけにはいかない。従順さにも程があると考える余裕さえない。とは言うものの、走り続けるには身体と精神の強さが必要であり、人々はへとへとになっている。

 近代では情報をフロー化する圧力が働いている。ストック情報もコンテクストから切り離され、断片化されて、絶えずフロー化される。教養主義の復興はエリート社会への郷愁である。フロー化の進展は民主化を拡大し、歴史の流れと合致する。大衆化社会を経て、ポストモダン状況がフロー化を正当化し、インターネットの出現が加速させている。そこではフロー情報の速度は相対論の制約へ限りなく近づこうとしている。
 
 インターネットはフローとストックの両面を持っている。そのため情報の受容と供給が二極化する。けれども、ネットの浸透自体が情報爆発を促しているので、フロー化に偏りがちである。ウェブ上ではフロー情報のサービスが次々と登場し、膨大なデータが駆けめぐり、それを捉える技術があっという間に考案される。過去も未来も現在のフローとのネットワーク的な関係で意味づけられる。

 近代では、ある事件や出来事などのフロー情報がメディアを通じて報道され、それを共有することで共同体意識が生まれる。メディアが黙殺すれば、ニュースもコミュニティもいずれも存在しないことになる。だが、誰かが人の目に触れるように扱えば、インターネットがまさにそれであるけれども、そのニュースをめぐって共同体が形成される。彼らの登場により、無視を決めこんだ勢力は世論誘導・操作や既得権益の保護を目的とした共同体と見なされる。この取捨選択に関して共同体の内外で不信感・警戒感が増大する。

 フロー情報もストック化するが、それは時の流れと共に生じる現象である。ただし、すべてが転換するわけではなく、部分的に欠落する。フロー情報は暗黙の裡にコンテクストが共有されているけれども、実際にはそれは非常に複雑である。そのため、妥協としてある観点を中心に要約することになる。

 近代のメディアを情報伝達の時間軸から分類するならば、「フロー」と「ストック」に二分できる。前者は情報の共時的共有を主要な目的とする。一方、後者は、通時的伝承を主目的とする。これらの盛衰には時代状況が強く反映する。

 フロー・メディアは送り手と受け手が同時代的コンテクストを共有していることが前提になっている。その扱う情報は広いが、浅い。リアルタイム性が追及され、認識は知識や理解力などの個人的差異に左右されない。その共同体内部の情報の共有が目的であり、しばしばそれが内と外を分かつ機能を果たす。逆に、フローが共同体を形成する場合もある。排他性による非寛容や同質性の強要が起こる危険性がある。活字で言うと、新聞や雑誌が挙げられる。音声・映像メディアであれば、読み書き能力が必要つぁれないので、共有可能性が高く、フロー傾向は強まる。

 一方、ストック・メディアは歴史的情報を深く掘り下げる。それはアーカイブであり、その前提のコンテクストは過去のものとなっていることが多い。テクストのコンテクストから知らなければならないので、受け手の認識は知識や理解力など個人差に依存し、わかる人とわからない人の上下のヒエラルキーをもたらす。上層は選民意識や独善性、下層は奴隷根性や妬みを抱く危険性がある。プリント・メディアでは書籍がストックに当たる。記録媒体を所有しての音声・映像の享受もこちらに分類される。

 フロー・メディアは共同体内部での平等性が強い。そのため、求心力の強化が要請される際に活況を呈する。それは戦争による危機であったり、激動による流動化だったりとさまざまである。日米開戦の前後、日本の新聞や雑誌、ならびに映画の観客動員数は戦前期の最高を記録している。反面、ストック・メディアのレコードの売り上げは伸び悩んでいる。また、本来ストック・メディアである書籍も、状況によっては、フロー化する。文革の際、紅衛兵の手には『毛沢東語録』が握られている。名言は過去のテクストが持つ特定コンテクストから切り取られ、それ自体で完結するようにされた文ないし文章である。名言集はコンテクスト・フリーの断片、すなわちフロー情報の寄せ集めである。加えて、フローはコンテクスト共有を自明視するため、それをめぐって求心的=排他的な共同体を形成する危険性がある。ネット上のサイバー・カスケードもこうしたフロー化の極端な帰結である。

 共同体をめぐる問題からサイバー・スペースが戦場と化すことは容易に想像がつく。戦さは共同体間で起きるものだ。フロー化するメディアが実情だとしても、それを無批判的に受け入れるのはシニシズムでしかない。そこでは悪意の優越感が支配する。そのルサンチマンを克服するには意図的な、すなわち健康的な目的に規定されたヒエラルキーの思想が必要である。全力疾走を続けていては消耗し、再起不能に陥ってしまう危険さえある。時には、スローダウンも必要だ。その流れのコンテクストに気づくなら、慌てることもない。ストックは歴史的認識をもたらす。それはフローを相対化し、コンテクスト理解の意義を開眼させ、寛容さを教える。フロー化する世界を健全化するにはストックが不可欠である。
〈了〉
参照文献
佐藤卓巳、『言論統制─情報館・鈴木庫三と教育の国防国家』、中央公論新社、2004年
ポール・ヴィリリオ、『速度と政治―地政学から時政学へ』、市田良彦訳、平凡社ライブラリー、2001年

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