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反知性主義と政治(2015)

反知性主義と政治
Saven Satow
Apr. 02, 2015

「学問する尊厳とそれに挑む気魂というようなものが、知らず知らずのうちに、私のその後の人間形成にどのくらい役に立ったかは測り知れない」。
前尾繁三郎

 日本の政治が反知性主義に陥っているとしばしば指摘される。その発端はワンフレーズ・ポリティクスの小泉純一郎首相の登場だろう。しかし、当時、必ずしも彼は反知性主義者と呼ばれてはいない。その概念が頻繁に使われ始めたのは橋下徹の政界進出以降である。彼は「本を読んで、くっちゃべっているだけ、役立たずの学者文化人」などと口にする。

 もっとも、橋下の学者批判は全共闘を思い起こさせる。いささか懐かしい思いこみを臆面もなく発言する無知がその座にとどまり続ける状態は反知性主義の政治を世間に印象づけている。

 知性主義の政治家と尋ねられて、思い浮かぶ人物の一人が前尾繁三郎である。盤石の佐藤栄作政権の時代にあって、この宏池会の領袖は政界の団十郎の数少ないライバルと目されている。73~76年まで衆議院議長を務め、その下で働いていたのが元参議院議員平野貞夫である。

 前尾は「教養が邪魔する」とよく評されている。彼を総理から遠ざけたのが教養だというわけだ。前尾は自分の言動を教養によって相対化し、反省的思考を常としている。自省に彼の血性としての矜持と高貴さを感じさせる。

 反知性主義をめぐる議論で知識の有無に焦点が当てられることがある。知識が欠如している状態、あるいはその逆に飽和している状態だと指摘する論者が要る。しかし、知性主義は知識に対する姿勢から考えるべきだろう。

 西洋思想史においてソクラテスは理想の知性像の一つである。このアテナイの虻が神託を受け、無知の知を自覚したことはよく知られている。古代ギリシアでは「汝自身を知れ」が重要な規範の一つであり、自分は知らないことを知っているとソクラテスは自省する。知性主義はこの自省に基づいていなければならない。それは反省的、すなわち再帰的思考を通じて知識を獲得したり、それを利活用したりする態度である。

 アメリカの反知性主義は、思想界では、周期的に論じられるテーマである。歴史を敷衍すると、これは知識人批判と言い換えられる。アメリカは移民によって形成されてきたため、イスラームや中国、欧州と違い、知識人による伝統の蓄積が小さい。民衆の知恵や知識を持ち上げて、知識人を批判する傾向がしばしば見られる。

 そうした思想家の一人がエリック・ホッファーである。彼は正規の教育も満足に受けずに、沖中士や工事労働者をしながら、執筆している。このドイツ系移民の子は民衆を称賛し、知識人を糾弾する。

 けれども、彼が最も影響を受けたのはミシェル・ド・モンテーニュの『エセー』である。このフランス貴族は「私は何を知っていよう? (Que sais-je?)」と自問して思索したモラリストとして知られている。ホッファーの知識人批判は彼らの自省の欠落に向けられている。無知な民衆を指導してやらなければならないと自惚れた知識人を糾弾しているのであって、知性を否定しているわけではない。

 自省のない知識人批判の行き着く先はマオイズムである。文革やクメール・ルージュ、センデロ・ルミノソは知識人を人民の敵として弾圧したり、殺害したりしている。まおイズムは歴史を断絶して社会革命することを強調するため、それを担ってきた知識人を否定する。紅衛兵を思い起こす鵜現象が現われたら、「革命無罪」よろしく「愛国無罪」の自省のない言動がはびこったら、反知性主義が社会を脅かしていると認知すべきだ。

 活字や電波など今の日本のメディアには日本賛美が溢れている。自画自賛で飽きたらず、果ては外国人に日本称賛させている。

 鏡を見ているだけでは進化しない。姿見は身だしなみを確認するための反省的道具である。鏡は他者に見られる自己を認知させる。しかし、ナルシストは鏡の自己像を無批判的に愛する。自己愛に耽溺する者は鏡に自らの願望を語らせるようになる。鏡がそれに沿わない応答をしても、自省することなどない。自分より美しい人を貶めれば、願いはかなうと歪んだ行動へと向かう。『白雪姫』はそうした知恵文学である。

 今の日本は『白雪姫』の王妃だ。しかし、戦前にもこうしたナルシストに陥っている。来日したブルーノ・タウトが桂離宮を称賛すると、日本国民は舞い上がる。その風潮を徹底的に批判したのが坂口安吾の『日本文化私観』(1942年)である。その安吾は、終戦後の1946年4月、『堕落論』で「堕ちよ!生きよ!」と次のように説く。

 終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。人間は永遠に自由では有り得ない。なぜなら人間は生きており、又死なねばならず、そして人間は考えるからだ。政治上の改革は一日にして行われるが、人間の変化はそうは行かない。遠くギリシャに発見され確立の一歩を踏みだした人性が、今日、どれほどの変化を示しているであろうか。
 人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

 反知性主義がはびこる戦後70年であるが、69年前、日本社会には知性主義の声が響き渡っている。
〈了〉
参照文献
坂口安吾、『坂口安吾全集』14、ちくま文庫、1990年
竹内洋、『改訂版学校システム論』、放送大学教育振興会、2007年

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