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すみれの花咲く頃(2010)

すみれの花咲く頃
Saven Satow
Nov. 17, 2010

「しかしどの民族も、いな、どの人間も、成熟しようと欲するものはすべてそのような覆い包む妄想を、そのような庇護し面紗で包む雲を必要とする。しかし現今では人々は一般に成熟を憎んでいる、なぜなら歴史を生以上に尊ぶからである」。
フリードリッヒ・ニーチェ『反時代的考察』

 そこは夢の世界です。憧れと共感に満ち溢れています。綺麗に着飾った女役やダンディな着こなしの男役が華やかなオペレッタやレビューを繰り広げています。その仲でスポット・ライトぉ浴びているのは、長身で、肩幅が広く、目鼻立ちの整ったトップ・スターです。

 それを見つめるのはほとんどが女性です。小学校に入りたての少女から米寿を超えた婦人までいます。一見さんも、常連さんも、親子二代、三代、四代に亘るファンもいるのです。彼女たちにとってこの世界への忠誠心は幸福感の証です。すっきりとした汗の匂いと共に、むせるようなメークやかぐわしい香水の香りがステージから漂ってきます。だらしなさや不潔さ、醜さはそこにはありません。

 それが宝塚です。

 1914年に宝塚唱歌隊として第1回公演を宝塚パラダイス劇場で行って以来続いている宝塚は由緒正しい日本のサブカルチャーです。宝塚は少女マンガの誕生に大きな影響を及ぼしています。初の本格的少女マンガである手塚治虫の『リボンの騎士』は宝塚なしにはありえません。また、その逆に、少女マンガに救われてもいます。客席に空席が見えるようになった74年、池田理代子の『ベルサイユのばら』を舞台化し、大成功を収め、宝塚は息を吹き返します。宝塚は、日本が世界に誇る少女マンガの精神を最も具現化しているのです。

 戦後には、母が「たからじぇんぬ」という雑誌のアルバイトを始めたので、ぼくはアルバイトのアルバイトをした。アルバイトといっても、たとえば久慈あさみと淡路千景の写真に、「清楚さは壁によりてたち、華麗さはソファに花びら区」といった、無内容でカッコウイイだけのキャプションをつけるのだった。それでも、ライバル誌の「宝塚グラフ」のほうの、岩谷時子とはりあっていたものだ。中学で一年上(?)の手塚治虫が阪大の学生で「歌劇」に四コマ漫画を書いていたころである。
(森毅『おお、宝塚』)

 けれども、宝塚はオタクとは無縁です。これほど相性の悪い関係もないでしょう。宝塚のモットーは「清く正しく美しく」です。オタクが好む「カワイイ」や「萌える」ではありません。欲望や快楽の耽溺は、宝塚において、汚らわしく、卑しむべき悪徳です。

 清・正・美はこの世界にとってイデアです。それは宝塚における認識の共通理解や道徳の本質、世界の目的の根拠にほかなりません。宝塚は夢の世界ですから、それを現わす根源が必要です。

 宝塚は民主制ではなく、徹底とした貴族制の社会です。選抜試験に合格後、養成機関に入学すると、歌唱・舞踏・演技を基礎から叩きこまれます。この過程を経て、ようやくステージに上がれても、トップ・スターになるのはほんの一握りです。しかも、入学から退団までの間は、日常生活を含め、厳しい制約が課されています。しかし、宝塚が維持され、ファンに幸福をもたらすためには、プラトンが『国家』で強調したように、エリートとして与えられた役割を果たし、全体のよき調和に専心しなければならないのです。

 宝塚の舞台を支配しているのは男役のトップ・スターです。「清く正しく美しく」の徳を体現しています、舞台上で女役が惹かれ、ファンから支持されるのはたんに甘美で情熱的だからではありません。気品ある徳のためです。徳への愛こそ宝塚における愛にほかなりません。それはまさに徳を備えた哲学者が国家を統治すべきだというプラトンの哲人政治の理想そのものです。その根源的価値を受動的ではなく、高貴で、高位、善きものとして能動的に創出するのです。

 今はどうか知らないが、そのころの宝塚では、つけまつ毛は自分の髪の毛で作ったものである。そのとき、淡路はぼくの毛を三本ぬいた。それがなければ、ぼくはもっと偉い学者になっていただろう。
 (略)宝塚文化の中で少年時代を過ごしたというのは、ぼくに大きな影響を残したように思う。小学校のころに『モンテクリスト伯』を読んだが、それと前後して見た、小夜福子のダンテスに轟夕起子のメルセデスというのが映像化している。シャンソンの「暗い日曜日」も、ジャズの「煙が目にしみる」も、ぼくには戦前の宝塚のメロディである。初音礼子は、スタニスラフスキーやコクランなどの演劇論の本をたくさん持っていたので、借りてみんな読んだ。映画というと、フレッド・アステアにジンジャー・ロジャース、そしてゲーリー・クーパーにグレタ・ガルボだった。
(『おお、宝塚』)

 宝塚ほどジェンダーに向き合っている世界もないでしょう。ジェンダーが告げるのは次のことです。男女の関係は社会的組織の基本的な様相で、男と女のアイデンティティの大部分は文化的要因に規定され。両性の違いは社会的構造によってつくられていると同時に再生産しているという実態です。宝塚は、ジェンダーが概念として生まれる前から、それを承知しています。

 宝塚の世界では男女をめぐる言説に対して一切の転倒が起きません。恐るべきことに、宝塚は現が社会が否定したいジェンダーだけでなく、コンプレックスの問題を軽やかに、明るく、喜劇的に描いて見せます。むしろ、それが徹底的に追及されるのです。男役は現実の男以上に男らしくなければなりません。男役は颯爽とし、高潔で、エレガントに振る舞います。それは一つの気高きデカダンスであって、現実の男には耐える力などないのです。

 最初に本格的な宝塚論を書いた男性作家は坂口安吾です。観劇するだけでなく、予科の座学・練習も見学し、1951年に『宝塚女子占領軍』を著わしています。宝塚を論じようとするなら、この完璧な作品を踏まえていなければなりません。この終戦直後の流行作家は、歌舞伎や新劇、SKD、映画などとも比較しつつ、最上級の評価をしています。神代錦と春日野八千代の舞台には賞賛を惜しみません。

 光りかがやくようなリンリンたる力の権化を感じさせ、我々は力に打たれるのですが、男の我々にとってもノスタルジイのような、純粋な力、古代人が太陽神に寄せたような理想上の純粋な力を感じさせます。女が男に扮した良さだろうお思いましたし、つまり、そこが宝塚の良さだと思いましたね。そしてサッとひきあげる呼吸も水際立っていましたね。いかにもその道のベテランたちが力を合せて作りあげた舞台の感じ。安心して、まかせきって見てられる感じでしたよ。

 宝塚から最も縁遠いのは真理への意志です。

 まずそれは、本場物ではなくて、コピー文化だった。しかしながら、本物志向なんてのは野暮であって、コピー文化のほうがオシャレっぽいといえないだろうか。高級文化にとどかないままで、コピー文化が流通してしまうことが、情報化社会の先どりと言えなくもない。
 少女趣味と宝塚を嫌う人がいるが、それはなによりもユニセックスの世界なのである。男も女も仮りの役がらにすぎない。戦前の、「男は男らしく、女は女らしく」の時代にあって、それは評価されてよい。小学校の高学年あたりで、「男らしい女の子」と「女らしい男の子」がおもしろいと、今でも言われることがあるが、「男らしさ」も「女らしさ」も枠の抑圧であるから、「男は女らしく、女は男らしく」のほうが解放的になる。そのおかげで、上野千鶴子のようなフェミニストとつきあえる。そして、ちょっと知的志向の中流の女の子たちが、宝塚をキーにして社交を進めていた。
 ぼくは、文化というのは、なによりも社交のかたちだと考えている。ぼくが宝塚に学んだのは、その社交だった。
(『おお、宝塚』)

 宝塚はコピー文化であり、それは「マーガリン効果」の典型例です。本場物の代用として出発したけれども、独自に進化を遂げています。コピーに徹することで誰も真似できない独創性を実現しています。本物志向、すなわち真理への意志は想像力の束縛であり、夢の破壊です。この方法論の驚くべき先見性は、いくら賞賛したとしても、不十分です。クエンティン・タランティーノは、宝塚より80年遅いのです。

 イデアを根拠としてすべてが演じられています。スターは夢をそれとして演じ、ファンはその意志を感受するのです。それは成熟した姿勢だと言わねばなりません。反時代性を徹底的に追及することによって、宝塚は比類なき魅力を保ち、新たな価値を創出し続けています。宝塚を正しく評価するには、精神の成熟が不可欠です。それこそが文化への偉大な視線にほかなりません。

 宝塚のステージに影響された人物が1970年代に世界のモード界に革命を起こします。それは高田賢三です。KENZOは、モード界の中心をオートクチュールからプレタポルテへと完全に移行させ、従来閉鎖的だったファッション・ショーを開放、非西洋のデザイナーの力量を世界に知らしめています。この姫路出身のデザイナーは、幼いころから宝塚の大ファンだったことをしばしば口にしています。確かに、色鮮やかな服飾を身にまとったモデルと馬や象の登場する大掛かりでお祭り騒ぎのファッション・ショーにはあの夢の舞台の影響が垣間見れます。また、93年の東京の宝塚大劇場の杮落としのレビュー「Parfum de PARIS」の舞台衣裳を担当しています。宝塚がローカル文化にすぎないというのは思いこみにすぎません。

 宝塚をわからずして、文化を語ることなかれ。おお、宝塚!
〈了〉
参照文献
大越愛子、『フェミニズム入門』、ちくま新書、1996年
坂口安吾、『坂口安吾全集18』、ちくま文庫、1991年
森毅、『あたまをオシャレに』、ちくま文庫、1994年

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