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マイノリティデザイン。それは、弱さを生かせる社会をつくる方法

2013年5月。息子の目が見えないことがわかった。

彼が生まれたのは、2013年1月。どうして4ヶ月の時差があるかというと、生後間もない赤ちゃんは、大なり小なり目が見えづらいからです。だから僕ら夫婦も、言ってみれば「普通の赤ちゃん」として息子を育てていた。

ところが、ふとしたことがきっかけで、彼が視覚障害児であることがわかりました。なんの前触れもなく、予兆や伏線もなく。頭が真っ白になり、目の前が真っ暗になりました。

それから7年。

今、僕は「世界ゆるスポーツ協会」という新しいスポーツを発明する団体の代表をつとめています。それだけではなく、義足をファッションアイテムに再解釈する「切断ヴィーナスショー」。視覚障害者の目となるロボット「NIN_NIN」。ユナイテッドアローズと立ち上げた、ひとりの身体障害者の悩みから新しい服をつくるレーベル「041(ALL FOR ONE)」など、多くの福祉プロジェクトに携わっています。

すべての仕事に通奏低音のように流れているのは、「弱さを生かすこと」です。誰かの、あるいは自分の「マイノリティ性」に着目し、「弱さ」を「新しい強さ」に変える。

いつしか僕は、この働き方を「マイノリティデザイン」と呼ぶようになりました。

気づけば、多くの企業や自治体も巻き込みながら、活動の規模がどんどん大きくなっていきました。「好きを仕事にする」ではなく、むしろ「弱さを仕事にする」というやり方が、思ってもみない形で多くの賛同を得ていったのです。

そんなある日、10年来の付き合いだったライツ社の大塚啓志郎さんから「本をつくりませんか?」とお誘いを受けました。

「今、むなしさを抱えている人が多い。まるで、はじけて消えるシャボン玉を無限につくっているかのように、自分が携わった仕事が次々に消費されていく。みんな、一生懸命働いている。なのに、社会は一向に良くなっている気がしない……。澤田さんの働き方は、そんなむなしさを乗り越えるヒントになると思うんです」と。

息子の目が見えないとわかってから、もがきつづけた7年。本当に苦しかったし、悲しかった。

何をするにもやる気が起きない。仕事に手がつかない。大好きだった本を読む気にもなれない。人生に霧がかかったような気持ちになり、「終わった」と沈み込みました。

だけど、この深い悲しみが、僕に考える時間をくれました。「障害者と健常者を分ける線は何なんだろう?」「障害というある意味での『弱さ』は克服しなければいけないのだろうか?」「自分はだれのために働き、そして生きるべきだろうか?」。

だからこそ得られた「仕事のやり方」があります。

実は僕は、息子が生まれるまで仕事に対して「向いてないな」「才能がないな」と諦めをもっていました。でも今は毎日、夢中で働いています。もしこの経験をオープンにすることで、楽になったり、自分を少し好きになれたり、あるいは自分の仕事に誇りを持てる人が増えるならば……。そして、1年をかけて本が完成しました。出版は3月3日です。

タイトルは、『マイノリティデザインー弱さを生かせる社会をつくろう』。

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大袈裟にいうと、今死んでもいいようにすべてを出し切った一冊です。「マイノリティデザイン」の心得、実践例、発想法。自分の弱さや獲得してきた仕事の進め方も含め、すべて詰め込んでいます。このnoteで「はじめに」を全文公開します。ぜひ読んでみてください。

「見えない。そんだけ。」

これは、「ブラインドサッカー世界選手権2014」のために書いたキャッチコピー です。すべての弱さを、一度「そんだけ。」と言い切ってみる。「弱さ」は「伸びしろ」だと捉え直し、思い切ってタッグを組んでみる。そこからしか生まれない未来があります。

この本を読んで、自分の弱さを誇れる人が一人でも多く増えますように。


・・・・・・はじめに・・・・・・

「いい仕事をしたい」という、だれしもの願いを叶えられない世の中はどうなのか


 仕事という名のバトンを受けとる。前方だけを見つめながら全力疾走する。周りの景色を楽しむ余裕もなくひた走る。そして、次の走者へとバトンを渡す。肩で息をしながら、小さくなっていく走者を見つめる。ふと思う。「あれ、今バトンを渡したランナーは、どこへ向かっているんだっけ?」。そんな余韻を打ち消すかのように、次のランナーがバトンを渡してくる。再び、走り出す。
 これが20代の頃の、僕の働き方でした。

 話は変わって、19世紀のこと。
 イタリアに住むエンジニア、ペッレグリーノ・トゥーリは、恋人と文通がしたいと思いました。でも、その恋人は視力を失いつつあり、紙に文字を書くことができませんでした。そこでトゥーリは、ある機械を発明しました。大切な人のために。そして、自分のために。
 その発明は「タイプライター」。
 タイプライターはのちにパーソナルコンピュータの「キーボード」へと進化し、視覚障害者だけではなく、今日の僕らみんなの暮らしを支えています。
 この話を知ったとき、「いい仕事するな……」と心から思いました。

 いい仕事をしたい。
 多くの人が願うことではないでしょうか。ところが、世界と比べても、日本人はあまり自分の仕事に満足していないようです。
 世界仕事満足度調査では、世界35カ国中最下位(Indeed社調べ、2016年)。世界最大のビジネスSNS「LinkedIn」の調査(2014年)でも、日本の正社員は世界26カ国でもっとも「やりがいを感じていない」という結果。
 かくいう僕も、例外ではありませんでした。

父親がキレイなCMをつくったところで、視覚障害のある息子は見れない


 2004年に新卒で広告会社に入社し、コピーライターという自分が望むクリエイティブ職に従事することができていました。渋谷駅のハチ公前の大看板に、自分の考えたキャッチコピーが掲載されている。自分の企画したCMがテレビで放送されて、多いときには8000万人にリーチしている。充実した毎日を送っていた。はずでした。

 時は流れて、僕ら夫婦に1人の息子が生まれました。よくミルクを飲んで、よく泣いて、よく笑う。寝不足の日々が始まりましたが、かわいくてしかたがありませんでした。でも、3か月ほど経った頃、息子の目が見えないことがわかりました。
 終わった、と思った。

 見えない子って、どうやって育てたらいいんだろう。恋愛ってするのかな。幸せなんだろうか。その日から、仕事が手につかなくなりました。

 僕の主な仕事は、映像やグラフィックを駆使して、広告をつくることです。それってつまり、僕がいくら美しいCMをつくったとしても、視覚障害のある息子には見ることができないということ。
 「パパどんなしごとしてるの?」と聞かれたときに、説明できない仕事をやるのはどうなのか。僕がやっている仕事なんて、まったく意味がないんじゃないか。

 なにをすればいいんだろう? どう働けばいいんだろう? 32歳にして僕は、今まで拠り所にしていたやりがいをすべて失い、「からっぽ」になってしまったんです。

ライターがこの世界に生まれた理由。「社会的弱者」は発明の母だった


 僕は上司に息子のことを打ち明け、それまで担当していた仕事を9割減らしてもらい、息子との向き合い方を探すために、障害当事者を訪ねることにしました。それは、僕ら夫婦のためです。

 家に帰って、「今日はこんな素敵な視覚障害者の方がいてね……」って、毎日グッドニュースを届けるみたいに、妻にその日会った人の話をしていました。そうでなければ乗り越えられなかったし、なにか少しでも、そこにヒントが転がっていればいいと思っていました。

 200人を超える人たちと出会い続ける日々の中で、光を照らしてくれる話を聞き ました。 片手で使えるライターと曲がるストローは、「障害のある人と共に発明された」という話です。

 どれも諸説はあるようなんですが、ライターは「マッチで火をおこすには両手が必要だから、片腕の人でも火を起こせるようにしよう」というアイデアから、今の形になった。曲がるストローは、「寝たきりの人が手を使わずに、自力で飲み物を飲めるようにするため」に。……それが今では、障害者とか健常者とか関係なくみんなが使うものになっている。

 つまり、いわゆる「社会的弱者」は「発明の母」になり得る、と知ったのです。

マイノリティに「広告的なやり方」で、光を当てられないか?


 この話を聞いて、僕はすごく楽になりました。「できないことがあるのは当人のせいではない。社会のほうを変えればいいんだ」と思えたからです。

 同時に、そこで気づいたのは「障害者は企業のマーケティング対象から除外されている」という事実です。
 僕は10年以上広告会社で働いていましたが、障害のある人の意見を聞いたりしたことがなかったんです。心身に障害のある人の数は、全国で960万人以上と言われている。それなのに、はじめから除外されているのはもったいないと感じました。ライターやストロー、そしてタイプライターのように、だれかの「できない」や「障害」は、「社会を変える切り口」になる可能性があるから。
 自分の仕事に活路を見出した気がしました。

 広告の仕事とは、極論的には「価値を見出す」ことです。
 そう考えると、障害当事者を含めた、いわゆる「マイノリティ」と呼ばれる方が持つ独自性に、「広告的なやり方」で光を当てられるかもしれない。

超アウェーの世界で、「弱さ」の反転を目撃した


 手探りの日々を続けていくうちに、僕はいつの間にか、超アウェーの世界に足を踏み入れていました。広告業界から離れた、なんの手がかりもない「福祉」という世界に。

 ある日、日本ブラインドサッカー協会の松崎さんという方から、一般向けに公開している体験会のネーミングを考えてほしいという相談を受けました。
 ブラインドサッカーとは、アイマスクを装着して行う「視覚障害者サッカー」です。
 転がるとシャカシャカと音の鳴るボールを、耳を頼りに追いかけ、ドリブルし、パスし、シュートする。プレー中、観客は沈黙を続けます。選手がボールの音や相手の気配を察することができるように。
 例外はゴールシーン。ボールがネットを揺らした直後は、思い切り声を上げていい。「うおぉぉぉ!」。沈黙と大歓声の落差に、いつも鳥肌が立ちます。
 その一般向けの体験会を実施してはいるものの、もっと知名度を上げて集客を図りたい。なにかアイデアはないか? というお題でした。

 ものは試しにと、体験会におそるおそる参加してみると、自分の価値観が180度「グワン」と音を立ててひっくり返りました。
 場をリードするのは、視覚障害のある寺西一さんという選手。参加者は、アイマスクをつけて、柔軟体操をしたり、ボールを使ったグループワークをします。
 暗闇に放り込まれて一気に不安が襲いかかってくる……と思いきや、それは予想していたような「視覚を奪われた怖い体験」ではありませんでした。むしろ「視覚が閉ざされている安心感」を得られる体験だったんです。
 世界が、なにか「適切な情報量」にチューニングされていくような。

 情報社会の今、人は情報の85%を視覚から得ている、というデータがあります。つまり僕らの生活の中では、スマホ、パソコン、タブレット……あらゆるデバイスが「ON」になっていて、常に目から情報が飛び込んできてしまう。
 ところが視界を「OFF」にすると、情報量がおさえられ、快適な時間が待っていた。
 そう考えると、その場をリードするブラインドサッカー選手が「目をOFFにするエキスパート」に見えてきました。

 後日、僕は松崎さんに「OFF T!ME(オフタイム)」というネーミングを提案しました。
 脳も目も疲れている現代人。それに対して、ブラインドサッカー体験は「目をOFFにする」という価値を提供しています、と。
 その後、「OFF T!ME」はテレビや新聞に取り上げられ、今では企業や団体向けのチームビルディングやコミュニケーション研修として、日本ブラインドサッカー協会の収益の柱のひとつにまで成長しました。

 この仕事が、いちクリエイターとしても、息子の親としても、ターニングポイントになりました。「目が見えない」という、ある意味での「弱さ」が、見方を変えると新しい価値になることを目の当たりにしたからです。

マイノリティデザイン。それは「弱さを生かせる社会」を残す方法


 こんなふうに、いつもは隠しているような「できないこと」も堂々と1枚のカードとして出せる社会になるといいな、と思いはじめました。

 息子の話をすると、よく「研究もすすんでいるし、見えるようになるかもしれないよ」と言われることがあります。
 励ましで言ってくれているのはわかるんです。
 でも、見えないということは、不便ではあるけど絶対的に悪いことではない。「できないことは克服するのではなく、生かすことができる」ということを、僕は教えてもらいました。そして、コピーライターという自分の職能を使って、そのお手伝いができるかもしれない、と。

 広告会社では、「強いものをより強くする」仕事が多い。だけど、もし「弱さ」にもっと着目したら。「弱さ」を「強さ」に変える仕事ができたなら。

 目が見えない息子は、いわゆるマイノリティです。
 でもマイノリティだからこそ、 社会のあらゆるところに潜んでいる不完全さに気づくことができるかもしれない。「ここ、危ないですよ!」 「もっとこうしたほうがいいですよ!」と、その穴を埋めることで、健常者にとってもより生きやすい世界に変えることができるかもしれない。
 だからこそ、「弱さ」という逆風そのものを、追い風に変えたい。そしていつか、「弱さを生かせる社会」を息子に残したい──。

 「マイノリティデザイン」──マイノリティを起点に、世界をより良い場所にする。このちょっと仰々しい言葉が、僕の人生のコンセプトになりました。

苦手、できないこと、障害、コンプレックス……、人はみな、なにかの弱者・マイノリティ

 それから、怒涛のプロジェクトラッシュが始まりました。

 いわゆる福祉アイテムである義足を、ファッションアイテムに再解釈する「切断ヴィーナスショー」。視覚障害者が「横断歩道を勇気と度胸と勘で渡っている」という話を聞いて開発した、ボディシェアリングロボット「NIN_NIN(ニンニン)」。ユナイテッドアローズと立ち上げた、ひとりの身体障害者の悩みから新しい服をつくるレーベル「041(ALL FOR ONE)」……。さらには障害者だけでなく、高齢化する社会を逆手にとった音楽グループ「爺-POP」のプロデュースなど、仲間や企業を巻き込みながら、さまざまなプロジェクトを立ち上げていきました。

 脈絡のないように見えるかもしれませんが、どれもこれも「マイノリティなもの・人・悩み」を起点にしたプロジェクトです。
 そして、僕は次第に「自分だってマイノリティだ」という当たり前のことにも気づいていきます。

 そもそも「マイノリティ」と聞いて、どんなイメージを持つでしょうか。
 身体障害者、LGBTQ、難民……。定義自体が多義的で、その捉え方は人によってもさまざまですが、僕はいくつものプロジェクトを進めながら、マイノリティとは、「今はまだ社会のメインストリームには乗っていない、次なる未来の主役」だということに気づかされました。

つまりマイノリティとは、「社会的弱者」という狭義の解釈ではなく「社会の伸びしろ」。 人はみな、なにかの弱者・マイノリティである。
 僕も、もちろんあなたも。
 マジョリティとマイノリティは、人工的な線でスパッと分けられるものではなく、むしろすべての人の中に、両者は共存していたんです。

「超・個人的」な課題に、社会全体を巻き込めばいい


 僕の中にいたのは、「極度の運動音痴」というマイノリティでした。

 小学生のときから体育の時間が大嫌いでした。足は遅いし、球技となると「澤田が決めたら倍の点数な」とハンデをつけられる始末。足の速いクラスメートが女子たちからキャーキャー言われるのを横目に、僕はクラスで生き残るための活路として、「クラス新聞」を自主制作しはじめました。だれに頼まれるわけでもなく教室の出来事を記事化して、「はてなくんをさがせ」なんていう連載コーナーまでつくって、掲示板に貼っていました。
 でも、だれからも注目されません。それどころか「澤田くんのやっていることは意味ないと思います!」と帰りの会で女子から鋭い宣告を受けました。

 話が逸れました。
 これは僕の恥部なので、ふたをして、ひもを何重にもグルグルと巻いて、見ないようにしていました。でも、どうして思い出したのかというと、出会ってきた障害当事者の影響なんです。

 歩けない、見えない、聴こえない、集中できない。そんな障害は、ある意味では「弱さ」です。でも、一緒にプロジェクトを始めた仲間たちは、その弱さを開示していました。だからこそ僕は、「自分の広告をつくる技術を生かして、なにか力になれないか」と思ったわけです。なのに、当の自分は「スポーツが苦手」という弱さを封印している。直感的に、「これは損だ」と思った。

 と同時に思ったんです。「運動音痴」という言葉が良くないな、と。
 「僕、運動音痴なんです」と勇気を振り絞ってカミングアウトしても、「なるほど。じゃ勉強がんばってね」などと返され、事態が一向に改善されません。

 そして、閃きました。「運動音痴」というネーミングを変えられないか? そこで、「スポーツ弱者(Sports Minority)」という言葉を考えました。
 すると、なんということでしょう。なんらかの外的要因で、やむを得ず「スポーツをできない状況に陥ってしまった人」に見えてきます。


 息子だって、同じくスポーツ弱者です。目が見えないと、どうしてもできるスポーツは限られます。
 「僕はスポーツ弱者なんだ」。
 そう口にすると、世界が変わる予感がしました。

 運動が苦手でも、目が見えなくても楽しめる、まったく新しいスポーツ。既存のスポーツのように勝利至上主義だけじゃない、だれもが楽しめるようなスポーツ。そんなスポーツがあればいいんじゃないか──。

 そして2015年、自分という弱者救済のために「世界ゆるスポーツ協会」を立ち上げました。

 ハンドソープボール 、イモムシラグビー、ベビーバスケ……。
 「スポーツ弱者を、 世界からなくす」ことをミッションにつくりはじめた「ゆるスポーツ」は、簡単に言うと「勝ったらうれしい、負けても楽しい」「運動音痴の人でもオリンピック選手に勝てる」「健常者と障害者の垣根をなくした」新しいスポーツで、これまでに90競技以上を考案して、10万人以上の方に体験してもらいました。

 そして、木村拓哉さんや KAT-TUN の中丸さんといったタレントのみなさんにも、メディアで挑戦していただけるまでのエンターテインメントになりました。
 それだけにとどまらず、東京2020オリンピック・パラリンピックのスポンサーであるNEC、富山県氷見市などの企業や自治体とタッグを組み、CMや広告の代わりに「独自のゆるスポーツをつくる」というビジネスにまで発展しています。

 ゆるスポーツを始めた2015年当時、内閣府が行った世論調査によると、成人が週1回以上スポーツを実施した比率は40・4%。つまり、残り約60%の人がスポーツをする機会が年に数回あるかどうか、あるいはほとんどやっていませんでした。
 そう考えると、1億人の半数以上、数千万人規模の「スポーツをしない人」マーケットを取りこぼしているという「穴」が浮かび上がったんです。ここにスポーツ弱者の視点を持ち込むことで、新たなチャンスが生まれるんじゃないだろうか──。

 「切断ヴィーナスショー」「NIN_NIN」「041」「爺-POP」「ゆるスポーツ」。そのどれもが、超・個人的な課題から始まった小さなプロジェクトでした。それがいつしか、社会全体を大きく巻き込んだ新しい潮流になっていったんです。

 マイノリティを起点に、働く。
 その、とてつもないパワーに、僕は息を吹き返しました。

僕らが陥っていたのは、クリエイティブとは真逆の「納品思考」


 社会に飛び出した22歳のときは、「クリエイティブの力で、もっとこの社会を居心地がいい場所にするんだ!」と大きな野望を抱いていました。

 でも、多くのビジネスマンがそうであるように、気づいたらルーティン仕事がどんどん膨らんでいき、目の前の仕事に対してなんの疑問も抱くこともなく、流れ作業のようにこなす日々が続いていました。
 このリズムに乗っていると、僕にとっての仕事のゴールは「とりあえず納品すること」になりました。
 「間に合った!」「〆切までに整った!」と、達成感を感じていたのも事実です。でもそれは、本来の目的ではなかったはず。

 入社して6年が経ったある日のことです。
 銀座にあるCMプロダクションの7階で、プレゼン用の資料を探していた夜21時頃。 ふと「この仕事って、なんのためにやってるんだっけ……」と思い、資料をめくる手が止まりました。そして、「自分は今の仕事に満足しているのかな?」という疑問がむくりと立ち上がりました。

 昨日話題になったキャンペーンが、次の日には忘れさられ、別の話題に移っている時代。この爆速消費に巻き込まれながら、いやその消費を生むために僕らは息をつく間もなく働いています。

 この終わりのない苦しみの正体。きっと広告業界だけでなく、日本で働く僕らみんなが陥っているのは、「納品思考」という病。 働き方の問題にしても、一向に改善しない経済も……「納品したら、終わり」。その思考の連続が、すべての歪みの原因だったのかもしれません。

資本主義(=強者)の伴走者のまま、才能を食い尽くされていいんだろうか?


 世の中、とかく強くなるための理論が猛威をふるっています。
 「でかい」とか「速い」とか「多い」とか。
 20代の僕が広告をつくることに疲れてしまっていたのも、すべてはこの「強さ」だけに伴走することへの違和感からだったんです。

 子どもの頃から、僕は数多くのクリエイターたちに救われてきました。
 海外で学校に馴染めなくてしんどかったとき、もうピカピカの、憧れの存在がそばにいてくれました。X JAPANのhide、カート・ヴォネガット、カート・コバーン、江戸川乱歩、マイケル・ジャクソン、スヌープ・ドッグ。
 でも、いざ社会に飛び込んでみると、あらゆる業界の「クリエイター」と呼ばれる職種の人たちが疲れていることに気づきました。
 その原因は、持てる才能を経済が食い尽くそうとしているからです。

 結局のところ僕らは、資本主義(=強者)の伴走者として、その歯車となって動いています。強者の売上をさらに増やすために。
 けれども一方で、みんな気づきはじめていると思うんです。
 前年比10「1」%の売上、「四」半期目標達成といった数字をクリアするのが、すべてではないことに。労働人口は減少し、国内市場が縮小し、さまざまな格差が拡大する中、短期目標をクリアすることだけに僕らが全力疾走しても、息切れして潰れるだけだということに。

 ある後輩が、こんなことをつぶやいていました。
 「資本主義って、いったいどこを目指しているんですかね?」。

 その答えは、経済学者にすらわかりません。
 だれもわからないのに、僕らは単一的な生産性や業績に、向き合いすぎていたんじゃないかと思うんです。

弱さを受け入れ、社会に投じ、だれかの強さと組み合わせよう


 単一の反対は、多様です。

 今、僕が進めている仕事は、ゆるスポーツも含めてどれも、息子や障害のある友人たちや自分自身の「できないこと」や「悩み」から生まれたもの。
 「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」。トルストイの言葉です。

 たとえば、映画監督に「幸福な家族を撮ってください」とお願いしたら、ある程度似通った画になると思います。家族で食卓を囲んでいて、大型犬がいて、暖炉があって、みたいな。一方で、「不幸な家族を撮ってください」なら、千差万別です。 無数に表現方法はあります。

 つまり、「弱さ」の中にこそ多様性がある。

 だからこそ、強さだけではなく、その人らしい「弱さ」を交換し合ったり、磨き合ったり、補完し合ったりできたら、社会はより豊かになっていくと思うんです。
 息子の目が見えないという「弱さ」と、自分のコピーを書けるという「強さ」をかけ合わせる。スポーツが苦手という自分の「弱さ」と、いろいろな人の「強さ」をかけ合わせる。

 今、僕は「強さ」も「弱さ」も、自分や大切な人のすべてをフル活用して仕事をしています。弱さは無理に克服しなくていい。あなたの弱さは、だれかの強さを引き出す力だから。

 弱さを受け入れ、社会に投じ、だれかの強さと組み合わせる──。これがマイノリティデザインの考え方です。そして、ここからしか生まれない未来があります。

 この考え方と実践方法を、僕と同じクリエイターに、そしてすべての働く人たちに共有したい。そう思い、この本を書きました。

 この本に書いたことは大きく5つです。その1つひとつを一章ずつにまとめました。

 1つ目は、「マイノリティデザインとは何か?」。
 第1章には、広告というマスの世界から福祉というマイノリティの世界へ、僕が経験した人生のパラダイム・シフトとともに、たくさんの障害当事者に教えてもらった「今日の弱さは、明日の強さ」という考え方について書きました。

 2つ目は、「才能の使い道を、スライドさせよう」という提案。
 ①本業で得た力を、本業以外に生かす ②マスではなく、ひとりのために ③ファストアイデアではなく、持続可能なアイデアへ。マイノリティデザインは、この3つのスライドから始まる、ということについて書きました。

 3つ目は、「マイノリティデザインの実践例」。
 第3章では、僕がもっとも多くの時間を割いている「ゆるスポーツ」について書きました。なにをきっかけに、マイノリティをどう生かし、どうやって人を巻き込み、なにをつくり続けているのか。その手順を共有します。

 4つ目は、「自分をクライアントにする方法」。
 息子に出会って僕は……こんな話をすると、よくこう言われます。「大切な人が思い浮かばない自分は、どうすればいいんですか?」。でも実は、自分の中にあるマイノリティ性こそが「運命の課題」。第4章では、それを見つける方法として、「自分宛の企画書」というフレームワークを提案します。

 5つ目は、「マイノリティデザインのつくり方」。
 この本の最後に、秒単位の「暇つぶし」ではなく、長生きする「生態系」そのものをつくるための、アイデアの出し方や言葉のつくり方をまとめました。

担ぎ手が渋滞している神輿より、道に置かれっぱなしの神輿を担ごう


 そこはまるで手つかずの宝の山でした。マイノリティの世界を見渡せば、たくさんの 神輿(みこし)が路上に放り出されていました。神輿は担ぎ手がいなければ、本来の輝 きを放つことができません。だから、僕はその神輿を担ごうと思いました。

 広告の世界には、僕以外にいくらでも担ぎ手がいます。重鎮もまだまだ元気だし、生きのいい若手も次々加わっていく。でも、マイノリティの世界にはまだ全然、担ぎ手が足りていないんです。僕が神輿に手をかけ、ひとりで担ぎはじめてしばらくすると、「楽しそうだね」「僕も一緒にいい?」と、1人、また1人と仲間が増えていきました。今では会社の中にも外にもたくさんの仲間がいて、みんなで大通りを練り歩けるくらいの人数が集まってきました。

 この世界にはまだまだ、担ぐべき課題があります。あちこちに散らばるマイノリティ 1人ひとりに、固有の──「ユニーク(unique)」な課題があるからこそ、ユニークな答えが見つかる。そんなまだ見ぬ新大陸は、マイノリティは、きっと福祉以外にもたく さん隠れている。

 マイノリティの定義を大胆に広げ、「スポーツ弱者」のような新しいマイノリティを次々に可視化していくことで、拓けていく未来がある。


 この本では、僕なりに悩んで、もがいて、そして掴んできたすべてをお伝えします。
 今、働くことに悩んでいるすべての人に、あなたが持つ素晴らしい才能に、今一度あかりを灯すための火種となるように。
 どうか伝わりますように。

2021年1月1日 澤田智洋

(追伸)

この本をできるだけたくさんの人に知っていただくために、もしも「こんなことできるよ」「この人と会ってみたら?」「こうしたらいいんじゃない?」というアイデアがあったら、ぜひ澤田まで、あるいはライツ社の大塚さんまでご連絡いただければ嬉しいです。ライツ社 大塚さん連絡先 otsuka@wrl.co.jp




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